つまんない街。
いつものように学校に向かう途中、夕顔瀬橋を渡りながら、遥はそう思った。どこを見ても、だだっぴろい空と、川と、山しかない。今朝テレビで見たニュースでは、週末に東京ドームで行われる韓国アイドルのライブの特集を放送していた。それから、表参道にオープンした日本初出店のカフェ、渋谷で大盛況だという人気アニメのイベント。全部全部、東京の話。遥には関係のない、遠い世界の話。渋谷でのイベント会場を映した映像には、大勢のカラフルな若者たちが詰めかけていて、その多くは遥と同い年くらいに見えた。同い年なのに、同じ日本にいるのに、過ごしている時間の濃度は全然違う。そんなの不公平だ。遥は苛立ちに任せて、力いっぱい小石を蹴飛ばした。高校生の遥が望むものは、この街では手に入らない。
衣替えしたばかりの爽やかな白シャツ姿が並ぶ教室で、遥は一番後ろの、自分の席に座る。ホームルーム前の自由な時間だけれど、ちらほらと真剣に机に向かうクラスメートの姿が散見された。高校三年生。遥の通う高校は、大学進学率一〇〇%を誇る進学校だ。受験を控えた最後の夏、部活を引退した生徒も増えてきて、ピリついた空気がじわじわと広がり始めている。
「おはよー」
席に着くなり、ひとつ前の席に座る彩が待ちかねていたように振り返る。ショートカットですらりと背の高い彩は、つい先週、最後の東北大会を終えて陸上部を引退したばかりだ。
「おはよー、彩、珍しく早いじゃん。朝練ないから?」
「うん、もうどれだけ寝ててもいいのにさ、つい早起きしちゃって。でも、だからって勉強は全然なんだけどね。早く起きても家帰っても、暇すぎるっていうか。時間がありすぎて、逆に勉強しようって思えないんだよね~」
彩はため息をつきながら言う。彼女は教師を目指して、仙台にある教育大学を志望しているはずだ。
「あー、今の成績じゃまずいのになあ」
彩がぼやいたところでタイミングよくチャイムが鳴って、担任のワカちゃんこと若山先生が入ってきた。
「はーい、席についてね~」
てきぱきと出席を確認するワカちゃんは、まだ三十代。国立大を出て大手広告会社でバリバリ働いていたのに、数年前に辞めて地元に戻ってきたらしい。確かな指導力とやわらかい雰囲気が人気で、遥も慕っている先生の一人だ。せっかく東京で華やかな仕事をしていたのに、なんでわざわざこんな田舎に舞い戻ってきたのだろう、とは思うけれど。
連絡事項を伝え終えると、ワカちゃんはふいに微笑んで言った。
「今朝の岩手山、みんなは見た? 私、いつも夕顔瀬橋を歩いて学校にくるから、橋から見える岩手山を拝むのが朝の楽しみなの。雲に隠れて全然見えない日もあるけど、今日の岩手山は、ああ生きててよかったーって思えるくらい、すっごくきれいだったのよ。だから、みんなも見ててくれたらいいなって思って」
遥にとっては、ワカちゃんがそんなふうに思うこと自体、意外だった。岩手山が綺麗だなんて思ったことがない……というか、意識して目を向けようと思ったことさえない。それは生まれたときから風景の一部としていつもあるものでしかなかったから。クラスメートたちも、いまひとつピンとこない様子で、ぼんやりと外を見たり、参考書を眺めたりしている。ワカちゃんもそんな雰囲気を感じてか、困ったような苦笑いを浮かべた。
「やだなあ、ちょっと年寄りくさかったかな。 でも、たまにはスマホや参考書から目を離すのもいいじゃない? 卒業したら県外に出る人も多いと思うから、地元のいいところを一つでも持って行ってくれたら、うれしいな」
なんとなくワカちゃんはこちらに向かって言ったような気がして、遥はドキッとした。空と川と山しかなくて、つまんない街。そんな遥の気持ちが読まれているように感じたから。
「あ、橋田っち!」
ホームルームが終わると同時に眠そうな顔で現れたのは、隣の席の橋田海人だ。野球部の推薦で入学しておきながら、頭を坊主にしたくないという理由で、わずか一か月で退部したツワモノ。大柄な体に長めの茶髪は、この学校ではかなり目立つ存在といえる。
「おっそ! またサボりかと思ったわ」
彩が口をとがらせて言う。彩と橋田っちは正反対のように見えるが、中学から一緒で、意外と仲が良い。
「や、昨日遅くまでオカンの手品に付き合わされて、あんま寝てなくて」
「は? 手品? なにそれ?」
「地区のお祭りで披露するんだって。結構ガチなやつ」
「うっそ、ウケる。マスターしたら私にも見せてよね」
「おーおー、任せとけ。で、ワカちゃん、なんか大事なこと言ってた?」
彩は首をかしげた。
「んーとね、今日の岩手山は綺麗だって」
「岩手山? なんで?」
橋田っちはふと思い出したように言った。
「岩手山といえば、俺、夏に毎年親父と登ってるわ。親父が山好きでうるさくてさあ」
とたんに彩が目を輝かせて食いつく。
「いいなあ、私も登ってみたい! 部活終わっちゃってさ、なんでもいいから体動かしたくて。橋田っち、お父さんに私も一緒に連れてってくれないか頼んでよ」
「はあ~?」
橋田っちは露骨にめんどくさそうな顔をした。
「いーけど、それって俺もついてかなきゃないやつ?」
「当たり前じゃん! 橋田っちのお父さんと私の二人きりで登るの、さすがに変でしょ」
「マジかよ~、今年は受験生だから勘弁してもらえるはずだったのに」
「そんなこと言わないでさ、橋田っちも東京の大学志望でしょ? 卒業したら、もう二度と登ることもないかもよ」
「俺は一生登んなくてもいーけどな、別に」
橋田っちはぼやきつつも、まあいっか、とつぶやいた。やったね! と彩が手をたたき、そのまま遥を見る。
「遥も登らない?」
「え」
運動が苦手な遥は、とっさに固まった。合唱部で、中学生のときに学年行事で登った東根山でも、辛くてヒイヒイ言っていたのだ。岩手山はもっとずっと高い山なのだから、きっともっと辛いに違いない。そう思ったのに。
「うーん。登ってみてもいい、かな……」
なぜか、そう返事している自分がいた。彩の「もう岩手山なんか一生登ることがない」という言葉に共感したからかもしれないし、ワカちゃんへの贖罪のつもりだったのかもしれない。いずれにせよ、高校を卒業したら、もう岩手に住むことはないだろう。それなら、このつまらない街に別れを告げる、最後の思い出づくりをしてもいいような気がしたのだ。
「やったね!」
彩が遥の腕を組んだところで、
「それ、ぼ、僕も行ってもいい?」
ふいに後ろから低い声がして、遥は飛び上がった。おそるおそる振り返ると、そこに立っていたのはクラスメートのラージくんこと良二くんだった。彼は卓球部なのだが、よく柔道部に間違われるほど大柄な体格で、名前をもじってラージくんと呼ばれている。体は大きいがあまり目立つほうではなく、遥はほとんど話したことがない。
「いーけど、おまえ、そんな図体で大丈夫かよ?」
橋田っちが、バカにしているのが半分、心配しているのが半分という感じで言った。
「山頂まで四時間くらいだぜ。最後まで歩けんのか? 遅かったら置いてくからな」
ラージくんはやや不安そうな顔をしつつも、真剣な顔でうなずいた。
「め、迷惑はかけないよ」
彩が耳元で「ラージくん、どしたん?」とつぶやいたが、彼の決意は固いようだった。
こうして高校生最後の夏、遥たち四人の岩手山登山は動き出した。
「わりい、親父が腰やっちまったらしい。ギックリ」
四人のLINEに橋田っちからメッセージが来たのは、八月の頭。登山決行日は二日後に迫っていた。即、エーッ! と驚くスタンプで返信したのは、彩。
「お父さん、大丈夫?」
「元気だけど、寝込んでる(笑)。登山はムリや」
「そっか~、せっかく天気よさそうだったのに、残念」
遥も返事を打つ。
「また今度にする?」
ほぼ同時に、「僕たちだけじゃダメかな?」と食い下がったのはラージくんだ。
「登山部の友達に聞いたら、学生だけで全然登れるって言ってたから」
「けど、登山口までどーすんだよ? 親父は運転も無理だし、バスはダルいし」と橋田っち。
しばし間をおいて、「うちのお姉ちゃんが車出してくれるかも」と彩。彩のお姉さんは大学生で、免許をとって車を買ったばかりだと言っていた。
「車出してくれるんならアリ」と橋田っち。
「じゃ、お姉ちゃんに聞いてみるね」
遥としては、体力に自信がないぶん、このまま立ち消えになっても構わないという気持ちだったが、みんながやる気なら……と、OKのスタンプを打った。結局、彩のお姉さんが車を出してくれることになり、登山は決行に決まった。コースはいくつかあるけれど、今回登るのは「柳沢コース」という一番定番のコースだという。心配だったのでスマホでザックリと調べてみたが、コースタイム八時間という案内を見て、遥は気が遠くなった。思い出づくりだとノリでOKしてしまったけれど、本当に大丈夫なのだろうか……。
当日の朝、遥はやっとの思いで四時に起きた。母が昔使っていた登山用のザックに、せっせとスマホで調べた荷物を詰めていく。雨具、水、ゴミ袋、ティッシュとハンカチ、着替え、スマホの充電器、タオル、お財布。食料はカップラーメン、コンビニのおにぎりとチョコレート、グミを持った。服装は、これも母に借りた登山靴とロングタイツを履き、Tシャツと帽子、ロングタイツの上から学校ジャージの短パン。髪の毛はポニーテールにした。鏡を見ると、山ガールというほどのこなれ感はないけれど、意外と様になるものだ、と遥は思った。五時ちょうどに彩のお姉さんの赤いアクアが家に着いた。急いで外へ出ると、早起きに慣れている彩がピカピカの笑顔で、「おはよー! かっこいいじゃん!」と窓から顔を出して手を振る。朝五時の空は、まだ薄暗いけれど、雲一つない晴天であることは見てとれた。真夏とは思えない、静かでひんやりとした空気が気持ちいい。これから登山口へ向かい、六時には登山を開始する予定だった。
車に乗り込むと、彩によく似て快活そうなお姉さんが運転席からひょいと顔を出した。
「初めまして~~、彩の姉の渚でーす」
渚さんは、顔だけでなく話し方まで彩そっくりだった。橋田っちとラージくんとは、盛岡にあるスーパーの駐車場で待ち合わせていた。早朝のがらんどうの駐車場に入ると、すぐにラージくんが目に入った。大きな体に負けないくらい大きなリュックを背負って、いかにも登山家といった本格的なウェアに身を包み、きまじめな顔で突っ立っている。
「あれ、橋田っちは?」と遥が聞くと、
「また寝坊したんじゃないの。いつものことじゃん」
彩があきれたように言ったタイミングで、「わりいわりい!」と遠くから声がして、橋田っちが駐車場に駆け込んできた。完全装備のラージくんに比べると、橋田っちの恰好はずいぶんラフだった。半袖短パンで、リュックはいつも学校に持ってきているのと同じ。靴も普通の運動靴だ。
「ずいぶん軽装じゃん。遠足と間違えてるんじゃないの」
彩が軽口をたたくと、橋田っちは、フンと鼻を鳴らして「岩手山なんて遠足みたいなもんだわ」と言い返した。
「渚さん、久しぶりっす」
「お~、海人、変わんないねえ!」
橋田っちと渚さんは、中学から一緒で顔見知りらしい。二人の会話が弾んでいる間、遥はじっと車窓からの景色を見つめていた。こうして間近に見ると、岩手山はまわりの山とは全然別格だった。大きくて隆々としていて、圧倒される。とてもサックリと踏破できるような山には思えない。登山を決めたのは自分だけれど、このまま車が岩手山にたどりつかなければいいのに、と思わずにはいられなかった。そんな思いとは裏腹に、車はスイスイと進み、あっという間に登山口がある馬返しキャンプ場に到着した。
駐車場に入ると、思いのほかたくさんの車が停まっていて、遥は驚いた。こんな朝っぱらから山を登ろうなんて酔狂な人が、他にもたくさんいるんだ。身支度を整え、既に山に向かって歩き出している人もちらほら見える。渚さんは、全員の荷物を下ろすと、「じゃ、気をつけてね! 帰りの時間分かったら早めに連絡してね~」と言い残して去っていった。
「相変わらずやな~」
橋田っちが苦笑いする。
「よく言うよ、お姉ちゃんのこと好きだったくせに。久しぶりに会えてうれしいんじゃないの」
彩がにやけながら言う。
「うれしくねえよ」と橋田っちはきまり悪そうに返した。
全員が荷物を背負い、トイレを済ませたところで時計を見ると、ちょうど六時だった。すっかり太陽も出て、あたりは森の爽やかな空気と朝の日差しに満ちている。
「うわ~、いよいよこれからか」
木立に囲まれた登山口の看板を見ながら、彩が楽しそうに言う。
「先は長いね~~~」
「こっから一合目までは一時間もあれば着くから」
橋田っちが何の感慨もなく、さっさと前を進んでいく。
「早いとこ登って、さっさと帰ろ~ぜ」
「ちょっと待ってよ」
彩が続き、慌てて遥もその後を追った。いちばん最後に、ラージくんがゆさゆさと体を揺すりながらついてくる。登り始めると、思ったよりもなだらかな登りで、木立に囲まれた山道は涼しく、遥は少しホッとした。けれど、ものの十分も歩くと息は上がり、体が汗ばみ始めた。橋田っちと彩はぺちゃくちゃと会話しながらもぐんぐん進んでいくので、ついていくのも必死だった。気を抜くと、あっという間に二人と距離ができてしまう。息を切らしながら後ろを振り返ると、ラージくんはもっとずっと後ろのほうで滝のような汗を拭っていた。
「遥、ラージくん、ごめん!」
しばらく進んだところで、後ろの遅れに気がついた彩が待っていた。
「橋田っちのせいだよ! ペース、早すぎ」
「遅れたら置いてくって言っただろ」
橋田っちは口をとがらせる。
「俺、おなかすいちゃったわ」
橋田っちはリュックから顔くらいの大きさの武骨なおにぎりを取り出し、おもむろに食べ始めた。
「みんなも休憩にしよーぜ」
それぞれ道の端っこにリュックを下ろす。遥はリュックからお茶を出し、一気に喉に流し込んだ。キンと冷たいお茶が体の中に注がれると、生き返るような気がした。
「ラージくん、大丈夫?」
あまり顔色のよくないラージくんを気にして、遥はそっと声をかけた。
「う、うん。なんか、足が重くて」
「ごはん、食べといたほうがいいんじゃない?」
彩の言葉にラージくんは無言でうなずき、リュックをがさごそと漁る。
「こんにちは~、失礼するよ~」
突然、後ろから声がして、二人組のおじさんたちがスイスイと登ってきた。遥の父親くらいの年齢に見えるのに、日に焼けて足取りは軽く、登り慣れている雰囲気だ。座り込んでいたラージくんが慌てて立ち上がり、脇によける。二人のおじさんは、大股で四人を追い越し、あっという間に木立の間に消えていった。
「俺らも、早く行こうぜ」
おじさんに追い越されたことに焦ったのか、いつのまにかおにぎりを食べ終えていた橋田っちが急かし、彩が反論する。
「ちょっと待ってよ。ラージくんがまだごはん食べてないじゃん」
「歩きながら食べればいいだろ」
橋田っちの口調に圧されてか、ラージくんが「だ、大丈夫。一合目で食べるよ」と言った。
「ねえ、歩く順番変えない?」
遥は、このまま橋田っちが先頭に立つのが不安で、思いきって言葉を発した。
「私は歩くの遅いから、先頭にしてほしい」
「そっか、気がきかなくてごめん。そうしよっか」
彩が即賛成して、列の後ろに回る。橋田っちは、ええ~と不満げな反応をしつつも、彩ににらまれてすごすごと最後尾についた。順番は、遥、ラージくん、彩、橋田っちとなった。
先頭に立つと、遥はずっと気が楽になった。すぐ後ろがラージくんなので、急かされることもなく、ゆっくり一歩ずつ足を進めていく。彩と橋田っちは相変わらずにぎやかに盛り上がっていたけれど、こちらはそんな余裕はないので、自分の呼吸に集中しながら、もくもくと歩いた。だんだん、体が慣れてきたのか、自分のリズムができたからか、周りを見る余裕も生まれた。足元にかわいい花が咲いていたり、動物の足跡があったり、外から見るだけでは分からない山の表情が見えて、おもしろい。
けれど、進めども進めども同じような樹林帯が続くので、なかなか進んだ気がしなかった。遥は少しでも前方が開けるたびに、ようやく一合目かと喜んだが、一合目は思ったよりもずっと遠く、なかなか着かなかった。後ろから来る人に続々と追い抜かれていくのも、気が急いた。そうしてひたすらに一時間ほど歩き続けて、やっと一合目にたどりついたとき、遥は歓声を上げた。
「やった、ついた!」
声を上げると同時に全身からふうっと力が抜け、こめかみから汗がたらりと流れ落ちていくのを感じる。後ろで橋田っちの「予定より遅いわ~」という声が聞こえたが、遥は聞こえないふりをした。タオルで額の汗を拭い、空を仰ぐ。疲れていたし、まだ一合目と思うと絶望的な気分にはなったけれど、それでも気持ちがよかった。一合目は休憩スペースのように開けていて、ちょうど空いていたベンチにラージくんがふらふらと倒れ込む。
「大丈夫?」
遥が声をかけるが、ラージくんは顔を上げない。
「とりあえず、水飲もう」
彩がラージくんのリュックをひっぺがそうとして、「えっ、重っ!!」と飛び上がった。
「ラージくんのリュック、信じられないくらい重いんだけど!」
すかさず遥と橋田っちもリュックを持ち上げてみるが、なるほど、遥は背負うのがやっとというくらいの重さだった。中をのぞき見ると、大量の衣類や食料、それにクマよけのスプレーや包帯、ビニールシートなど、しばらく山で暮らせそうなほど潤沢な荷物が詰まっている。
「さすがに持ってきすぎだって……」
まだ息の荒いラージくんは、顔を上げない。
「そりゃ足が重いわけだよ。お姉ちゃんの車に置いてくればよかったのに! 橋田っち、ラージくんとリュック交換してあげてよ」
「はあ? なんで俺が!」
彩がラージくんに飲み物を渡しながら、有無を言わせぬ態度で橋田っちにリュックを押しやった。
「ふざけんなよ、こんなに持ってくるやつが悪いだろ。どうしてもっていうならお前が持てよな」
「私に持てるわけないじゃん。そういう態度なら、帰りの車に乗せないからね。お姉ちゃんに言いつけるから」
橋田っちは、ぐっと言葉を飲みこみ、「ちっ、しょうがねーな」と言ってラージくんの荷物をひょいとかつぎ上げた。
「かわりに橋田っちのリュックは私が持つからさ」と彩がとりなす。
ラージくんは、水を飲んでやっと人心地がついたのか、橋田っちと彩の顔を順番に見て、泣きそうな顔で「ご、ごめん……」と絞り出すように言った。
「しょうがないよ、一緒にがんばろう」
遥は自分ももうここで下山したい気持ちなのを抑えて、そう言った。
「きっと山頂からの景色はきれいだよね」
「意外と登っている間は景色って見えないんだねえ。私、山頂につくまでは絶対帰らないよ」
彩の言葉を聞いて、ラージくんが勢いよく立ち上がった。
「ぼ、僕も。ぜ、ぜ、絶対登りたいんだ。も、もう、しばらく、岩手には帰らないと思うから……」
「どういうこと?」
遥が聞くと、ラージくんは小さな声で言った。
「お、お、親がアメリカに引っ越すんだ。だから、ぼ、僕も来年から、日本を離れることになって……」
「そうなんだ。実家が岩手じゃなくなっちゃうのは、さみしいね」
彩がぽつりと言う。遥は、実家が岩手じゃなくてアメリカだなんてうらやましいと思ったけれど、口には出せなかった。
「おまえ、そんなに気合いがあるなら、自分の荷物くらい自分で持てよな」
橋田っちが意地悪く吐き捨てるように言い、さっさと進んでいく。
「あと4.2kmだってよ。早く行こうぜ」
そう言いながらも橋田っちは、ちゃっかりラージくんと自分のリュックの両方を担いでいて、遥は言葉のわりに意外と優しいじゃないか、と思った。
そこから二合目までは、思ったよりもあっという間だった。山道はでこぼこと大きい岩があって歩きづらかったけれど、彩と遥とラージくんはちょくちょく休憩をはさみながら、一丸となって進んだ。橋田っちは、時々待っていてくれるものの、だんだんと差が開けてしまい、姿が見えなくなっていった。二合目を過ぎてさらに歩いたところで、「旧道」と「新道」という分岐があって、三人は立ち止まった。
「これ、どっちか分かる?」と彩が聞く。
「橋田っち、どっちに行ったのかな」
「電話してみる?」
彩がスマホを取り出したが、圏外だ、とつぶやいてスマホをしまう。ちょうど後ろから別の登山者たちがやってきて、彩が声をかけた。中年の男女二人組だった。
「すみません、この分岐って、どっちに行ったらいいんですか?」
「こんにちは。どっちでも大丈夫だけど、初めてなら四合目までは新道のほうがおすすめかな? 新道は『森の道』、旧道は『展望の道』って言われてて、旧道のほうが眺めはいいけど、新道のほうが歩きやすいんだよ」
男の人のほうが、微笑みながら答えてくれる。
「きみたち、高校生? 青春だ~、いいねえ」
「私たちは東京から来てるの」
女の人のほうがニコニコしながら言った。
「日本中の山を登ったけど、特に東北の山が大好きなの。岩手山に登るのはまだ五回目なんだけどね」
「五回も!」
遥は目を丸くした。
「何回登っても、また登りたくなるのよね」
二人の男女は、三人に会釈をして新道のほうへ進んで行った。遥たちも、その後を追って新道へ進む。ゆっくり、ゆっくり、けれど着実に。足が疲れ、息が上がって、遥は苦しかった。クラスメートに、こんな必死な姿を見られることも、恥ずかしくて嫌だった。けれど、もっと苦しそうなラージくんが弱音を吐かず、唇をかみしめて登っているので、やめられなかった。四合目に着いても、橋田っちの姿はなく、彩が「ここから旧道に行こうか」と言うので、遥とラージくんはついて行く。四合目に入ったところで、急にそれまで道を覆っていた木々がなくなり、ぱあっと視界が開け、青い空と緑の景色が眼前に広がった。
「うわあ!」
彩がうれしそうな声を上げる。遥とラージくんも、いったん足を止め、やわらかい空気を胸いっぱいに吸い込んだ。体中が汗と土臭いし、全身疲れきっているし、憧れていた高校生の夏休みからは程遠い。でも、そんなことはどうでもいいような、すがすがしい気持ちだった。
四合目から六合目くらいまでは、急に斜面が急になり、足場も岩が増えて、どんどん歩きにくくなった。遥は気を抜くと転びそうで、数歩進んでは立ち止まり、また数歩進んでは息をつくというような有様だった。ラージくんも同様で、ほとんど四つん這いになって登っていた。運動神経のいい彩がひらりひらりと先を進み、「そこ危ないよ!」とか「こっち側歩こう」と声をかけてくれ、ありがたかった。依然、橋田っちの姿はなく、リュックを預けたままのラージくんは食料がないので、彩と遥は水やおにぎりをラージくんに分けながら進んだ。こんなに喉が渇くことも、おなかがすくことも、山を登る前は想像もしていなかった。そうして、なんとか七合目についたときには、もう山頂につくはずの時間をとっくに過ぎてしまっていた。
「八合目に避難小屋があるから、そこまで頑張ろう」
彩がチョコレートを渡しながら、二人に力強く言った。七合目を過ぎると、だいぶ山頂が近づいたように思えた。岩手山の外輪山が、グッと迫力を増して、視界の右手に入る。少し傾斜がゆるんで、歩きやすくなり、遥は力いっぱい進んだ。茂みの間の細い道を進んでいくと、ずっと遠くに避難小屋が見え、元気が湧いてきた。
「小屋だ!」
彩が叫んで、走り出す。遥とラージくんは、顔を見合わせ、よたよたと小走りで後を追った。避難小屋は思ったよりも大きくて、周囲はキャンプ場のように広く、たくさんの人が散らばって休憩していた。湧き水のそばのベンチに、見慣れた茶髪の男が腰かけていて、彩が駆け寄った。
「遅かったじゃん」
へらへらと笑って言うその態度に、彩は怒りをぶつけた。
「ラージくんの荷物持ってるくせに先に行くなんて、あり得ない!」
「遅いやつに合わせてると、疲れんだよ。だからほら、先に行って場所とっててやったんじゃん」
「はあ? 絶対許さないから」
彩が橋田っちをにらみつけ、ベンチにどすんと腰を下ろす。
「で、でも、荷物持ってくれて、あ、あ、ありがとう」
ラージくんが橋田っちにお礼を言い、少し空気がやわらいだ。
「とにかく、お昼にしよっか」
遥はお腹がぺこぺこで、カップラーメンを取り出した。橋田っちが小さなガスコンロに折りたたみの鍋をのせて、湯を沸かしてくれる。アツアツの湯を注ぐと、辺りにジャンキーな香ばしい香りが漂った。三分間さえも待ちどおしく、ふたを開けて遥は勢いよくズルズルッと麺をすする。それは体中にしみ渡る魅惑のおいしさで、遥はみっともないと思いながらも、夢中でかきこんだ。彩はおにぎりを頬張り、ラージくんは大きなから揚げにかぶりついている。橋田っちがリュックから取り出したポテトチップスは、袋がパンパンにふくらんでいた。
「そっか、こんなに高いところまで登ったんだね」
遥はここまでの道のりを思い、小さくうなずいた。小一時間ほど休憩して、四人は再び山頂を目指して歩き始めた。八合目からはまた斜度がきつくなり、砂がサラサラとして、なかなか前に進まなくなった。橋田っちは彩に怒られたのがきいたのか、後ろからゆっくりとついてくる。稜線に出ると、風がびゅうびゅうと強く吹き付けて、目も開けていられなくなった。
「これ、山頂いけるかな?」
彩が強風で飛ばされそうになりながら言う。山頂から下ってくる人たちが、口々に「もうちょっとだから頑張れ!」「山頂のほうは風が弱いから大丈夫」と声をかけてくれる。風に我慢しきれなくなったのか、急に橋田っちが「俺、先に山頂行ってるわ!」と言い捨てて駆けだそうとした。けれど、ちょうど足場に尖った岩があって、橋田っちは「痛っ!」と叫んだ。そのまま足首がぐにゃっと変なほうに曲がって、体が傾き、橋田っちはくずれるように倒れ込んだ。
「君! 大丈夫かい?」
すぐに駆け寄ってくれたのは、ちょうど下山してきたおじさんだった。よく見ると、それは途中で遥たちを追い抜いていった二人組のおじさんだ。その人たちは、すぐに橋田っちの靴を脱がせ、足首を見てくれた。見た目では分からないけれど、足を横に動かすと、橋田っちはいってえ……と顔をしかめた。
「軽いねんざかな。テーピングすれば、自力で下山できると思うよ。何か固定するものはある?」
すかさず、ラージくんが大きなリュックから包帯を取り出し、遥は、なるほど、大荷物が役に立つこともあるんだな、と感心した。
「橋田っち、よかったじゃん。ラージくんの荷物を運んだのが、自分の役に立ったね」
彩が憎まれ口をたたく。橋田っちは決まりが悪いのか、珍しく小さな声でうっせえ、とつぶやいた。もう一人のおじさんが、あきれたように言う。
「君ねえ、そんな軽装で来るのは感心しないよ。登山靴だったら、足をひねることもなかったかもしれないのに」
そう言いながらも、おじさんは自分の持っていたストックを貸してくれた。
「ここまで来たら山頂に行きたいだろうから、これで体を支えながら歩くといい。避難小屋で待ってるから、そこで返してくれればいいから」
「ありがとうございます」
全員で頭を下げる。陸上部の彩が、手際よく橋田っちの足首に包帯を巻き、テーピングで固定する。橋田っちは赤ん坊のようにされるがままだった。
「私たちのこと置いていくから、バチが当たったんじゃないの」
あきれた様子の彩の顔に向かって、急に橋田っちが、ポンと手から花を出してみせた。赤い造花のカーネーション。
「ありがとな」
そう言って、照れたように頭をかく。
「え、こわっ。不気味!」
彩が橋田っちをにらみつつ、でも目元は笑っていた。
「これ、オカンに習った手品」
橋田っちが苦笑しながら言う。遥もおかしくなって、吹き出した。ラージくんまで体を揺らして笑い、四人でひとしきり笑った。そうして橋田っちにラージくんが肩を貸しながら、交代で荷物を持って、四人はゆっくりと、そろって登頂した。
2038m。岩手山山頂。
山頂の看板に立つと、ふっと風がやんだ。ここが、岩手でいちばん高い場所。やっと……やっと、登りきった。遥は急に泣きそうになって、グッとこらえた。空が青く、遠くのほうは白い靄がかかって、街や田畑が小さく見える。何にもないといえば、何にもない。けれど、美しかった。本当にすごく綺麗なんだ、と
遥は気がついた。
ようやくワカちゃんの気持ちが分かったような気がした。
看板の脇に小さなほこらがあって、なんとなく手を合わせる。
「あ、ありがとう。み、みんながいなかったら、の、登りきれなかった……」
ラージくんが震え声で言う。涙もろい彩は、号泣していた。
「次は荷物減らせよな」と橋田っちが軽く言い。ラージくんの肩をたたく。
「写真、撮ろうか」
彩の言葉で、四人で肩を寄せ合って写真を撮った。髪はぐしゃぐしゃ、顔はぼろぼろ。でも、みんな学校で会うときよりも、ずっと輝いて見えた。
下山しながら、岩手山を登ってよかった、と遥は思った。生まれたときからずっとこの街に住んでいるのに、まだまだ知らないことだらけだと気がつくことができた。つまんないのは街じゃなくて、そう決めつけていた自分だったのかもしれない、と思った。
そう、遥はまだ知らない。
山で食べたカップラーメンの味が恋しくなること。
山頂で撮った記念写真が、大切な思い出の一枚になること。
岩手山の美しさや雄大さに胸打たれる日が来ること。
何にもない故郷が、かけがえのない存在になること。
でもそれに気がつくのは、まだもう少し先の話だ。