清濁併せ吞む。 僕は清らかさの真価を知る。
気仙沼の魚市場に吹く潮風が、君は好きだと言っていた。僕も潮風、それも市場の賑わいでわずかに暖められた、遠い遠い水平線の果てから来た風......それに吹かれる君の長い髪が好きだった。
「そこの景色とか、雰囲気とか、食堂のお料理が大好きで、大事なひとができたら一緒に行きたい、って小さいころから思ってたの。それに絶対見てみたい水族館が、市場の近くにあるんだけど.........」
「水族館なら僕も好きだよ」
「そうなんだ。ショウくんにも気に入ってもらえるといいなあ」
ひやかしてくる友だちから隠れながら、僕たちは放課後に約束した。君は中学のクラスで一番成績が良くて、長い髪が似合ってかわいい女の子だった。そんな素敵な君を彼女にした僕は、いつも友だちにからかわれていたけれど、幸せだった。誰も来ない、屋上へ続く階段の踊り場で、いつも他愛もない話をしていた僕と君。薄暗い空間で光る、君の澄んだ聡明そうな瞳をよく覚えている。僕はいつまでも見つめられることに慣れることができず、そばにいる時はずっとどきどきしていた。君はよく笑う。その少しの表情の変化も、僕の心臓を跳ねさせる。
「......ショウくん、私のどこが好き?」
「えっ、そんなの全部だよ。僕の方こそ、背も低いし、別にイケメンじゃないのに......」
「そうかしら?」
「うん......」
「ふふ。少し不安になったの。私ね、変わってるって、よく言われるから。だって思っていた場所と違うでしょ? 私、初めてのデートに市場へ行こうって言ってるんだよ。いいの? ショウくんも人生初めてのデート先を、私が決めて」
「もちろん。君がどんなものを見て、何が好きなのかいっぱい知りたいんだ」
「そんなこと言ってくれるなんて、嬉しいな。ありがとう」
......きっと君が言ってくれなかったら、あの場所が大切なものになることはなかった。こうして僕たちが初めてふたりで出かけた記念の場所は、気仙沼魚市場、そして氷の水族館になった。
次の土曜日、僕たちはバスに乗って気仙沼魚市場へ向かった。僕にはもったいないほどの彼女、そんな君の隣に座るのは、誇らしくもあり、照れくさくもあった。バスの窓の外に広がる、梅雨が明けたばかりの、すがすがしい青空に目を細める君。その肩から流れる細い髪が、僕の腕にたびたび触れて、くすぐったかったのをよく覚えている。降りるよ、と言われるまで、僕はぼんやりしていた。初めてのデートだけど汗をかくほどの緊 張なんかはなく、ふわふわと浮き足立ったような心地いい感情が、始終胸いっぱいに広がっていた。バスから降りれば、潮風がかおる。船と、そのむこうに広がる海のきらめきが、鮮やかに視界へ飛び込んでくる。僕は何を話していいかわからないまま黙っていたけど、君は笑顔でこの場所を、まずは食堂まで案内してくれ た。
「とても楽しみ。もう一度、来てみたかったの。家族はみんな、いつも忙しそうだし......」
「そうなんだ」
「でもこれからはショウくんがいるから。ショウくんが連れてきてくれるもん」
「あっ、そうか、そっか......」
そんな話をしていると、すぐに小さな食堂にたどり着く。その白いのれんをくぐって、向かい合わせのテーブルに僕たちは座った。
「私はもう、決まってるから。ショウくんは何にする?」
そのころの僕は魚料理、それも和食はお寿司以外あまり好きではなかった。だから、我慢して入ったというワケではまったくないのだけれど、特に食べたいものが思いつかない。だからとりあえず、お品書きに一番大きく書かれているものに決める。
「日替わり定食にしようかな。安いし」
「うん、じゃあ店の人呼ぶね」
そう言って君は手を挙げて、僕の分まで注文を伝えてくれた。料理が運ばれてくるまでの時間は、僕の部活について聞かれた。僕はバレーボール部の補欠だった。しかし大会で記録を出した いと思うほど熱心でもなく、小学生のころから続けていた習い事の延長、くらいの心構えで、楽しく......というと聞こえがいいが、まあ、お気楽に活動していた。興味深い話なんてできなかったと思う。でも君は笑顔で聞いてくれていて、僕はそれが嬉しかった。やがて僕の目の前に、ご飯と、味噌汁、香の物の小鉢が並べられる。それから思った以上に量のある、竜田揚げを盛り合わせた皿。いいにおいだな、と思いながらテーブルを眺める。君の前にもすぐ茶碗などが並ぶ。そして最後に出された料理は......大きな皿に、大きな煮つけが、一切れだけ乗っている。中学生の僕は、そんな料理は見たことがなかった。店員が去ってから、割り箸を袋から出し、いただきます、とほほ笑んだ君に僕は聞 く。
「それ、なに?」
「メカジキのカマ!」
「カジキ? おいしいの?」
「少し食べていいよ」
君は皿を少し僕の方へ寄せる。僕は割り箸を割って、味のしっかり染みていそうな、その迫力ある身を一くち分だけほぐし、味見させてもらった。
「え。すごい。めっちゃおいしい」
「そうでしょ!」
ずっしりとして、でも脂の軽さもあって、旨味にあふれたその煮つけは、魚をあまり好きでない僕でもわかるほどの、別格のおいしさだった。
「次は僕もこれにしよう」
「またいっしょに来てくれるの?」
「......うん」
「あっ、カツオの竜田揚げもおいしいと思うよ、ひとつちょうだい」
「いいよ」
僕も自分の皿をさし出す。君は一切れ箸でつまんで、小さな口で頬ばった。
「わあ! やっぱり夏が近づくと、カツオはおいしくなるのね!」
嬉しそうに君がそう言うから、僕もひとつ食べてみる。確かに、いいにおいはするのに生臭さなんて全然なくて、もっと食べたくなるようなおいしいカツオだった。それまでの僕は気仙沼のカツオの旬が夏であることさえ知らなかったけど、この記憶があるからもう一生忘れはしないと思う。僕たちは幸せな気持ちでいっぱいになりながら、食堂での時間をゆるやかに過ごした。この日から、僕の好物はカツオの竜田揚げになったと思う。食堂を出てからは、君が行きたいと言っていた水族館へと向かった。そういえば友だちと回し読みしていた雑誌に、女の子の好きなデートスポットは水族館、なんて書いてあったなあと思いながら、僕は浮かれていた。
けれども。
......結果から言うと、その水族館に、僕が興味を持つものはなかった。当時の、まだ幼かった 僕の感性では。氷の水族館。冷たい氷に閉じ込められた、氷点下の、時が止まった水族館。まるで本当の氷 山に立たされているような錯覚にさせる、銀の世界。チケットを見せて館内に入ると、僕たちは係の人から防寒着のレンタルを勧められた。お願い します、と君は答える。僕はそこでようやく、今から見て回る水族館に、魚は一匹も『泳いで』 いないことを理解した。
「これから見るところ、壁が氷でできているの。そしてその中で、気仙沼で捕れる魚が凍らされてるのよ」
君は楽しそうに、もこもこの防寒着を身につけていく。その笑顔を見ている僕も、もちろんとても楽しかったのだけれど......同時に疑問も浮かんでくる。
......何が君をそんなに惹きつけるのだろう、と。
「ずっと、見てみたかったんだよね。氷の水族館。ショウくんと来れて良かった!」
係の人が順路の扉を開く。一気に冷気が僕たちの顔へまとわりついてくる。冬の寒さとも違う渇きと、どこかただよう機械のにおい。手に取るようにわかる、人工の冷気だ。
白と、透明と、凍った魚しか見えない無機質な館内では、君の瞳はいっそう丸く、目立ってい るようだった。薄暗いのに、氷の細かな乱反射が、館内ではラメのように光っている。
館内を見渡す。......ぴたりと動かないカニや、マンボウや、クエやタコ。氷をすりぬける冷めた照明が、とうに命のない彼らを静かに映し出していた。
君ははしゃぎ、氷の壁を見てまわる。そしてすぐに、三匹で泳ぐ姿を閉じ込められた、しま模様のタイたちを見つめて立ち止まる。僕はというと、目が痛かった。早くも自分のまつ毛が凍ってきている気がしていた。そしてその冷たさに、早くもこの場所を離れたくなっていた。
「すごいよね、こんな、クリスタルみたいに透明な氷を造れるなんて」
真っ白な息に隠れる君の顔、その頬はいつもより紅く見えた。何が凄いのかわからずにいる僕に、君は続ける。
「ここまで透明な氷を造れる技術は、本当に貴重で、大事なものなんだよ」
「そうなの? ていうか魚じゃなくて、氷を見に来たのかよ」
僕も君と同じように、タイが封じ込められた氷の壁をよく見てみる。たしかに透明だ。鱗の一枚一枚もくっきりと見通せる。
「魚も、氷もだよ。こんなに近くで新鮮なイシダイをじーっと見れる機会なんて、他にないでしょ。でもね、氷はもっと凄いの」
ふーん、と僕は適当な返事をしてしまう。外国の珍しい、奇怪な魚を見せてくれるならまだ面白いのに、と思いながらだ。
「まあ、君が面白いんなら、たまには良いか。この氷がどう凄いのか、わからないけど......」
「全然違うよ。だってさ、キッチンで適当に作った氷って、空気とか、ミネラルとかが混ざって白くなっちゃうじゃない」
君はかがんで、大きなカニが封じ込められた氷に顔を近づける。それもおおむね透明だ。しかし節々の境目などにだけ、わずかな白っぽさが見える。
「空気とか、不純物が混ざると白くなっちゃうの。流氷なんて、さらに白いでしょ。いろんな物 質が巻き込まれてるから」
「カニの節のあたりは、少しだけ白い感じがするね」
「海水に住んでいたんだもの。浸透圧よ」
「うーん......?」
「だから、こんなに透明な氷を造るには、不純物をすっかり取り除く技術とか、空気が入らないよう慎重に冷やの注意が必要なの」
小学生のころから理科が苦手だった僕は、笑顔で話す君にはあまり共感できなかった。それと同時に、少しだけ不安になってきた。これから僕は、君を楽しませる相手になれるのかな、と。君の髪は、防寒着の内側にしまわれている。もしその柔らかな毛先が、マイナス二〇°Cのこの冷 気にさらされていたら、すぐに凍ってしまいそうな寒さは耐えがたい。
「あー、もっと見ていたいけど、これ以上ここでお話していると喉がしもやけになりそう。そろそろ出よっか」
僕はうなずく。正直、助かった。もう外へ出たい、と僕の方から言いかけていたところだった。でも喜ぶ君を見ていると、なかなか言い出せなかったのだ。
僕たちは出口の扉を開けた。防寒着を返却して、屋外の、初夏の太陽を肌に受ける。冷たさに張りつめていた皮膚がゆるみ、手先と顔の血管へ、どっと暖かい血が送り込まれる感触がした。バスから降りたときは涼やかに感じられた潮風が、今は暖かい。
「ここの魚たちは数奇ね」
さっきまで防寒着の中へ詰めこまれていた君の髪が、青空の下でふわりと揺れた。
「すうき?」
「だって、本当はありえないことでしょう。私たちみたいな、陸の生きものに捕まって......未来永劫、氷の中で、学術的な標本、それから観賞用として、変わらない姿で閉じ込められるの」
「君は......そんなことを考えながら、あの氷を見ていたの?」
「そうだけど......」
君は笑っていたけれど、その瞳がちょっとだけ寂しそうに伏せられた。
「やっぱり、思っていた私と違う? もっと素直な女の子がいい?」
「いや、そうじゃないけど。素直じゃないなんて、そんなことは思わなくて」
「思わなくて?」
「......それが君の素直、なんだったら、それが一番素敵だと思う。ただ、僕なんかじゃついていけないかもしれないって、不安になっただけ......」
「そっか」
「そんな悲しそうにしないでよ、僕に期待はしない方がいいけど」
まだ知っている言葉の少ない中学生の僕は、何ともいえないこの気持ちをどうにか伝えようとしていたけど、あまり良くないように言ってしまったのだと思う。
「ふふっ、なんてことないのよ。ただ私は、SFみたいなのが好きなだけなんだから......」
情けなかった。僕の方こそ卑屈にならず、もっと素直になるべきだった。変な中学生男子のプライドなんか捨てて、君の笑顔に喜んで、君の考えをわからずとも尊敬するべきだった。
バス停への帰り道、空には変わらず晴れやかな青が広がっていた。僕は君の少し後ろを歩きながら、幸せと同時にほの暗い悔しさを覚えていた。君に対してじゃない。僕自身への悔しさだ。
そのうちに、君は受験勉強で忙しくなった。遠くの進学校へ行きたいのと、あの輝く目で楽しそうに伝えてくれた。僕も君に触発されて、特に理系科目をがんばってみようと思ったけれど、それらを好きになることは、僕にとっては難しかった。
恋をする気持ちが、こんなに複雑なものだなんて。僕は知ってしまった。君のことはずっとずっと好きだった。大事にして、いっしょにたくさん楽しい時間を過ごしたかった。あれから遊園 地やショッピングモールに遊びに行ったこともある。けれども君を心から楽しませている自信が ずっと持てなくて、その気持ちだけがつらかった。
君の進学を境に、僕たちは特に話し合いをすることもなく、少しずつ連絡を取らなくなっていった。ただただ大好きなだけじゃあ、恋愛はできない。すべて僕の問題だった。
やがて僕も宮城を離れ、広島の大学に下宿した。心に引っかかっていた君の存在も、だんだん思い出になりつつあるころだった。
テレビの緊急ニュースで、僕は東日本大震災を目のあたりにした。何よりショッキングだったのは濁流だった。
濁っていた。あんなにも、すべてが。
そうしてようやく理解した。透明、という色がどんなに繊細で、失われやすく、そして人々の心血がそそがれた色なのか。
僕は君を思い出した。すぐに君へメールを送った。返って来たのはエラーのメッセージだけだった。あのころメールを送り合っていたアドレスは、もう使われていないものになっていた。
故郷と、思い出の地を失った僕は、僕自身のほとんどを失ったかのように、からっぽの心になってしまった。その後の大学生活を、どんな気持ちで過ごしていたのかさえ覚えていない。僕に は未来が見えなかった。だから卒業後もそのまま安アパートに住み、細々とフリーターをしながら過ごした。恋をすることもなかった。距離こそ置いていたけれど、僕はずっと君を好きだったのだ。
もともと、なりたいものも目標もなく、何となく遠くに下宿してみたかっただけで故郷を遠く離れた僕だから、堕落するのは簡単だった。本当に時どき、君のきれいでまっすぐな瞳を思い出すこともあった。しかしそれらは余計に僕を無気力にさせた。
自暴自棄だったのだ。人間の力はなんてちっぽけなんだ、と。きっとこのまま僕はずるずる歳をとって、ぼんやり何も成さないまま生きるのだろう。だって、何を成したって、そんなもの......。
そうして若い時間を無駄に過ごしていた僕だった。しかしある日、また故郷に呼び戻される機会があった。生まれた時から面倒を見てくれていた、祖母の葬儀のためだった。
僕について、故郷について。さまざまな記憶を共有してくれた家族も、やがていなくなる。その儚さをまた思い知ると、心細くて仕方ない。泣くこともなかった。僕はこれからもきっと、また安アパートに戻って、だらだらとした生活を続けていくんだろう。
そんな時、僕はひとつの知らせを見る。
『氷の水族館、リニューアルオープン』
......たまたま立ち寄った、実家近くの喫茶店の壁に貼られていたチラシだった。それもけっこう前のものだ。
僕たちはみんな知っている、あの気仙沼の港が、どれほどあっけなく自然に蹂躙されたかを。活気のある市場も、それから氷の水族館も、どうなったか。どうやらあの極寒の施設は、再開することができたらしい。
しかし、これは僕の感想なのだけど......漁業のための市場が復興しなければいけないのはわかる。でも氷の水族館は、それほど大した施設じゃないのでは? 奇をてらっただけの展示だって、インターネットで苦言を呈されていたこともあったじゃないか。
僕は興味を持てなかった。
けれども足は、バス停にむかっていた。
どうして?
心のどこかには好奇心があったのかもしれない。君の面影を失った魚市場へもう一度おもむくことで、当時の思い出にひたりたかった気持ちもなかったとは言えない。ただそれでも、僕は思 う。
僕が前を向くために。
あの日の気仙沼の潮風は、きっと僕を招待してくれたんだ。
バスの、隣の席には誰もいない。寂しくはなかった。僕は君が好きだったけど、きっと君とは早々に目的地が変わっていた。それは悪いことじゃない。少し大人になった僕にはわかる。当時の僕に言ってやりたい。君の瞳に映る景色が僕のそれと違うことは、本当はとても面白いことだったんだと。......中学生の僕がもっと素直なら、未来は大きく変わっていたかもしれない。そん なことを思いながら、僕はバスを降りる。
ずっと以前に君と見た、あの青い空が水平線まで続いていた。たくさんの漁船が浮かぶ海は、明るい日差しに照らされている。潮風のかおりも懐かしかった。
......かつて君が案内してくれたのと、同じ道のりを歩いていく。
そしてふと気づく。こんなに活気のある場所だっただろうか?
単に、あの時は君の姿しか見えていなかった可能性はある。それにしても家族連れの明るい声が、こんなにあちこちから聞こえる場所だっただろうか。
当時の君の道案内だと、この先へもう少し歩いて食堂の方へ連れて行ってくれた。だけど僕は、少し寄り道をすることにした。
気仙沼魚市場の建物。人びとの出入りする、観光用の玄関へと、僕は吸いよせられるように歩いて行く。それから入り口近くで配布しているパンフレットをひとつ手にして、ぱらぱらめくった。この場所に何があるのか、そういえば僕は詳しく知らなかった、
「おさかな、いっぱいいっぱい!」
通路の先から小さな子どもの声が聞こえる。僕はその声がする方に向かってみる。通路の左手の壁は、長い長いガラス張りになっていた。そこから見えるものは、......コンテナ いっぱいのカツオ。そうだ、今はカツオがおいしい季節だった。
こうして水揚げされていることは、知識としては知っていたけれど、実際に見てみると圧巻だ。こんなにたくさんのカツオを、気仙沼の人と技術の力なら釣り上げることができる。信じら れないくらいだ。
「おさかなー!」
「ああ、すみません」
ガラスに家族連れの後ろを通ると、かわいい年少さんくらいのその子が、僕の方を見て笑っていた。僕も笑って、おさかないっぱいだね、と返した。......君も、小さいころから市場のこんな 光景が好きだったのかな、とふと頭によぎる。
僕はパンフレットを読んでみる。この魚市場には資料館のような面もあるようだ。気仙沼の漁業に関する三面スクリーンのシアター。マグロ漁船内部の再現。パノラマや釣り具操作の体験コーナーもある。それは子どもも喜ぶわけだなあ、と感心した。
......気仙沼の漁業を、技術を何があっても繋いでいこうとする信念は、訪れる子どもたちにしっかり受け継がれている。僕はからっぽだった胸の中に、きらきらして、さわやかな潮風に似た 感情の沸く心地がした。くさっていた気持ちを消し去るように。
「おにいちゃんも、おさかな、すきー?」
順路を抜けていこうとすると、さっきの子が声を張りあげて僕にそう言った。僕は振りむいて答える。
「僕もお魚、好きだよー!」
その子の瞳は、少し離れたここからでも輝いて見えた。......大好きなものと、未来を見ている瞳だ。僕は知っている。
そして魚が好きなのも本当だ。カツオの竜田揚げが好きなのは以前からだけど......それ以上の好きを今日、たった今、僕は感じた。
......僕は再び外へ出て、潮風に当たりながら、また君の案内してくれた道へ戻る。僕が停滞しているうちに、気仙沼魚市場は復興、いや、以前よりも力強く歩もうとしている。僕は自分が恥ずかしくなった。でも、これも嫌な気持ちではない。この輝きに僕も続こう。そんな気持ちになれる。
そのうちに、当時食堂があった辺りに着く。あの建物はなかったけれど、真新しい、意外にも 洋風の、きれいな食堂がそこにあった。それ以外にも気になる飲食店がたくさん並んでいるけども、今日のところはその食堂へ入ることにした。あの献立があるからだ。
僕はあの日に言った通り、君がおいしそうに食べていた、メカジキのカマの煮つけ定食を注文した。テーブル席に座ると、向かいに誰もいないことが寂しくなるかもしれないので、カウンター席に着いて、だ。
そうして運ばれてきた定食は、驚くほど記憶の中で君が食べていたものにそっくりだった。まあそれもそうか。メカジキのカマを盛りつけようとしたら、大きなカマの部分を大皿のど真ん中に盛るしかないからね。
その味は、思っていた以上に、本当においしかった。メカジキそのものの上質な素材の味はもちろん、気仙沼の海の幸を、心を込めておいしく煮込んだ、かけがえのない豊かな味付けがたまらなかった。
僕は夢中で食べた。ここの料理が好きだ。思い出の料理を更新した。新鮮な魚の鮮烈な栄養が、僕のだらけた心を潤わせてくれるようだった。
そして僕は、再び訪れた。
氷の水族館。きれいなようで、苦いような、思春期の僕に奇妙な思い出をくれた施設。やっぱり家族連れが多い。小さい子には、小さい防寒着も用意されていて、ぶあつい上着に身 を包んで雪の妖精みたいになっている子どもたちの姿はかわいらしい。男ひとりで来るのはやっぱり珍しいのかな、なんて気にしながら、僕もロビーでレンタルの防寒着をはおって再び銀色の世界への扉をくぐった。
...... 泳ぐような姿で、壁で氷漬けになった魚が、たくさんいるなあ。もし君と付きあうことのなかった僕なら、それ以上の感想は持てなかっただろう。
僕は涙をこらえた。またまつ毛が凍ってしまうと、長くここにはいられない。
透明だ。本当に透明だった。
未来永劫、と君は言った。そんな大層な時間は、僕たちにはあつかえないと一度は思い知らされた。それでもまた、あの濁流を乗り越えて、透明はまた造りあげられる。
気仙沼の魚たちの、鱗の一枚一枚まで見通せる、きわめて純度の高い氷。君ほど詳しくはないから、魚の名前なんかたくさんは知らないけれど、それぞれが気仙沼にとって大切で、貴重な存 在なのはよく、よくわかる。
寒さも忘れて僕は歩く。造られた氷、寒さ。それらは気仙沼の人びとの技術が積み重なったものだ。無駄なものなんて何もない。
そのうちに、ふと辺りで虹のような光がきらめき始める。なんだ、と見渡してみると、その光は氷を照らし、夢のように美しく輝く光景を映しだしていた。
それはプロジェクションマッピングだった。こんな演出があるなんて。これは子どもたちが喜ぶだろうなと思っていると、すぐにかわいらしい叫び声があちこちから聞こえて来た。
「すごーい、きれい!」
「さむいー! でもきれい!」
僕も息をのんで、光をながめた。
あまりにもきれいで、清らかだった。
目に見えるものだけじゃない。美しい氷を、美しい光で照らそうというその想像力ごと。そして目を輝かせる子どもたち。......ここにある、何もかもが清らかだった。若者らしくない僕の、だぶついた諦念を洗い流していく。
こんな純粋な気持ちは初めてだった。もしかすると、ずいぶん昔、ずっとずっと小さかったころには、いつも感じていた気持ちだったのかもしれない。
透明な氷へ、かすかに映りこむ僕の姿。その瞳がきらりと輝いた気がした。それはプロジェクションマッピングの作った、オーロラのような演出のせいだった。人工の......。 僕は理解した。輝きは人の清らかさによって、誰の瞳にも作れるのだ。
あの日、ひとりで気仙沼魚市場を訪れたことは、間違いなく僕の人生のターニングポイントだ った。
僕ももう三〇歳を超えた。そろそろ若いとは言えない年頃になりつつある。
あれから僕は、必死にお金を貯めた。やりたいことが見つかったのだ。
そして今、僕は大学の社会人枠で水産の勉強している。
気仙沼の力強さと気高さが、僕の意志を突き動かした。君の愛した透明を、永遠に繋いでいくこの世界を、少し出遅れてしまったけれど......僕も歩いてみたくなったんだ。