三十歳を越えて新しい友達、しかも親友と呼べる人間ができるとは思っていなかったが、内田(うちだ)と私の関係を表す言葉は、気恥ずかしさはあるものの親友が適当だと思われた。
彼と出会ったのは、S町役場の入庁式のことだ。私が学芸員、彼が一般事務職と職種の違いこそあったものの、令和3年度の同期入庁ということもあり、年齢は離れていたもののよく交流するようになった。
「磯貝(いそがい)さんって今まで何度転職したんでしたっけ?」
仕事終わり、S町の焼肉屋で食事をしている際に内田から問われた。カルビやロースといった脂質の多いメニューを待つ空白の時間を、若者の明瞭な声が埋める。
「ああ、最初は茨城の博物館、次は富山の埋蔵文化財センター、続いて神奈川の資料館、直近が千葉の埋蔵文化財センターだね。あ、といってもこういう文化施設は、たいてい教育委員会の所管だから、就職先って意味ではそれぞれの市役所で、教育委員会への配属か……。S町役場で5度目の職場になるよ」
改めて自分の経歴を語ってみたが、我が身ながらその取り留めのなさに驚くものである。
「改めて聞くとすごい。よくそんなに採用試験受かりましたね」
内田も二年の社会人経験があり、新卒採用ではなかったが、もともと童顔のためか、他の同期生と変わらない年頃に見えた。彼らからすれば、私は老いてもおり、転職を重ねてもおり、妙な職員に見えていることだろう。
「まあ必死だったからねえ。どうしても正規の学芸員になりたくてさ。とはいえ、正規採用されたのも千葉からで、それまでは臨時職員や嘱託職員でギリギリ食い繋いでいた感じだよ。あ、きたきた」
S町役場に至った理由を語っていると、配膳用のロボットが、軽妙な音楽を奏でつつ席へと迫ってきた。私と内田は餓えた動物のごとくロボットから肉を攫ったが、このような振る舞いをすると、かつて貪欲に職を求めた己の過去がより鮮明に思い出されるものである。
大学で歴史学を学び、その後学芸員を目指したわけだが、22歳で大学を卒業してからの私の人生は決して平坦なものではなかった。学芸員という職はそもそも募集が少なく、私が大学を卒業した時、正規の学芸員になるのは大学教授になるよりも難しいと、当の大学教授から説明があったくらいである。
しかし、昔から分不相応(ぶんふそうおう)な夢を追いかける性質であったのと、どうにも日本の文化というものに愛着を抱いていたため、文化財を保護する仕事を生業にしたい願望があり、貪欲に夢を追う人生を選んだ。
とはいえ、現在S町にて、まともな労働環境かつ正規の職員となったことで、その追いかける人生にも、一応の決着がつきそうではあった。
「いやあ、でも凄いですよ。夢の職業に就いたわけじゃないですが」
ロボットを見送りつつ、内田はさっそくカルビを網へと投入するが、話はまだまだ続いた。年若い同僚からの賞賛の言葉に、多少気恥ずかしさを覚えたが、素直に受け取ることにした。
「ありがとう。そうは言っても、学芸員の仕事 ていうのも本当に幅広くてさ。遺跡の発掘調査をするのも学芸員、博物館の企画展を考えるのも学芸員、住民 から蔵の調査を依頼されて、中の古文書や民具を調査して保存するのもまとめて学芸員の仕事でさ。日本の学芸員、特に自治体で採用された学芸員の仕事は未分化なことが多いんだ。……、まあ私はそういうの好きなんだけど、欲を言えば博物館の展示にもっと比率を置ければ――」
カルビが焼きあがるのを待っているのもあって、つい饒舌に学芸員という仕事の特殊性を語ってしまった。学芸員という専門職であっても、県立や国立の施設にでも勤務しない限り、自分の専門以外の仕事を多く担うことになる。私は、むしろその職の性質を利用し、今まで学芸員として何度も転職を成功させていた。
そして、私が来歴を語る間の内田の表情の移り変わりで、彼がこれから切り出そうとしている事にも検討がついた。
「内田君、もしかして転職したいのか?」
思いついたら即行動するというのが染みついている手前、私にはデリケートな話でも吟味せず口に出してしまう悪癖があった。だが、どうやら推測は間違てなかったようで、内田は焼けたカルビをタレにつけた状態で箸を止め、話を始めた。
「……ええ、最近ずっと考えちゃうんですよね。S町で働いていると、どうしても富岡の話が聞こえてくるじゃないですか?」
食欲をそそる薫りが鼻腔をくすぐるが、内田の深刻な様子を見るとさすがに肉と米を咀嚼する気にもなれなかった。
「富岡、ああ、福島の富岡町か」
私の故郷が群馬県の富岡市であるため、『富岡』と聞くとどうしても富岡製糸場のある方を思い浮かべてしまうのであるが、S町役場で『富岡』と言えば、まず間違いなく、福島県富岡町のことを指す。
埼玉県に所在するS町は、2010年に富岡町と友好都市宣言を行っていた。その縁もあり、東京電力福島第一原子力発電所の事故が起きた際、S町は富岡町の避難先に選ばれたのである。
「前、話をしたかもしれませんが、俺、富岡の出身なんですよ。あの原発の時は、『エコステ』に避難しまして、いやあ、あの時の『エコステ』は天国に見えましたね」
「そういえば、以前教えてくれたね」
かつて、内田が過去を語った場面を思い出す。当時は複数人の同期といたこともあり、あまり話を掘り下げられなかったが、ずっと興味があるエピソーだった。
「しかし、『エコステ』かあ。当時とはいえ不便じゃあなかった?」
内田との会話で出てきた『エコステ』というのは、S町の地域還元施設の略称である。ゴミ焼却炉の余熱利用をした温浴施設と、宴会が可能な休憩所があるため、当時一時避難所として採用されたのである。
『エコステ』は、紆余曲折を経て、現在、我が文化財課の資料展示室もその中にまとめられたカオスな施設へと変貌していた。そのため、どうにも内田の話とイメージが結びつかなかった。
「いやあ、当時あそこの大浴場が解放されて本当に助かりましたよ。避難中は全くお風呂に入れなかったので生き返った気分でした」
内田の話が始まったが、さすがに彼も空腹を我慢できなくなったのか、徐々に焼肉を口に運び始めたので、こちらも安心して食事を再開できた。彼から聞く避難の話は大変興味深く、また、彼の父親がS町の工場に転職したことをきっかけに、住民票を移したという経緯も知ることができた。
「ということで、富岡から住民票を移さず埼玉県に避難している人もまだ250人以上いるんですが、うちは全員すっかり埼玉県民、S町町民なんですよね。S町はもちろん住みやすいですし、都内にも電車一本で行けて便利だし、色々恩もあって好きな町です。でも、富岡のことを聞くとやっぱり気になっちゃって……向こうで公務員するのもいいのかなと」
内田の様々な思いがこもった告白に、時折網の上のロースをひっくり返す手が止まりそうになる。彼が翻弄されるままにS町民になった事情に加え、S町役場で聞こえる故郷『富岡』の呼称や情報のことを鑑みると、郷里へ帰りたいと思うようになるのは、至極当然のように感じられた。
「磯貝さんは、故郷に帰りたいと思いませんか? 俺のこの感情も、ある意味 ホームシックみたいなものなんですかね」
「――そうだね、私は学芸員を選んだから」
内田の問いかけに対し曖昧な返事をし、焼肉屋の窓の外に視線を映した。
目の前には国道4号線、すなわち日光街道(にっこうかいどう)が通っているのだが、その幅広い道路を目にした瞬間、私の脳裡にとあるアイデアが浮かんだ。
眼前の日光街道は、宇都宮までの道筋を奥州街道(おうしゅうかいどう)と兼ねる。S町が所有する近世絵図には、日光街道ではなく、陸羽街道(りくうかいどう)(奥州街道の異称)と書かれたものもあるくらいだ。
東北への入口は、窓を隔ててすぐ傍に敷かれていた。
「なあ、内田君、もし富岡が気になるなら、とりあえず一度行ってみないか。 東北旅行、ちょうど私も行きたかったんだ」
牛肉が焼ける音と窓の外の四号線を走るトラックの音、どちらも等しく騒がしい。だが、私の言葉は彼の耳に大きく響いたようだった。
焼肉屋での発案から1週間後、連休を利用しての二人旅が始まった。
今まで学芸員の採用試験のため、東北地方へは何度も行った経験があるものの、自家用車で行くのは初めてだった。千葉の某市のブラックな労働環境に耐え何とか購入した軽自動車が、今回の旅の相棒となってくれた。
朝早く出かけたこともあり旅程は順調で、高速道路を使わず、国道4号線とそのバイパスを二時間半ほど北上しただけで、栃木県と福島県の県境へと到達した。
「お、見えてきましたね。早いなあ、もう福島かあ」
福島県西郷村の道路標識を見て、内田が感嘆の声を上げた。
「そうか、自治体で言うと白河市じゃなくて、西郷村なのか。歴史をやっているとどうしても『白河関(しらかわのせき)』や『白河宿(しらかわし く)』の印象が強くてな」
道路標識を見て、栃木県那須町が、国道4号線にて、福島県西郷村に接続していることを始めて認識し、自分の不見識に気づいた。白河という地名の印象が強く、4号線で那須町から白河市に到達すると勘違いしていたようだ。
なお、旅が終わってから気づいたことだが、『白河関』にしても、『白河宿』にしても4号線の東側に並列する、国道294号上に位置しており、正確に言えば、この時は横を通り抜けただけになった。
「さすが学芸員ですね。私歴史は好きなものの、あまり知識がなくて。磯貝さんは関東だけじゃなく、東北の歴史にも興味あるんでしたっけ?」
内田は私が口にした歴史学の用語に興味を示してくれたようだった。
「ああ、卒業論文で参勤交代をテーマにしたんだが、仙台藩や盛岡藩には当時の参勤交代の様子がわかる優れた資料が多くてねえ。県立博物館に現物もあれば、書籍もちゃんと刊行されているし、研究しやすいんだよ」
なるべくマニアックにならないように言葉を選び、自分の本来の専門分野を語った。学生時代、東北地方の歴史や文化の奥深さに魅了されたが、今まで、東北地方で行われた学芸員試験で合格を勝ち取ることはできなかった。
「東北の文化に興味があって、一関市や、仙台の学芸員試験を受けたことがあるんだが、それこそ学閥とかあってねえ……、まあ仙台なんて若干名採用の採用試験に、受験生が百人以上いたから、ちょっと受からないよなあ」
いざ言葉にしてみると、落ちた時の記憶というのは鮮明に思い出せるものだ。自分を魅了した資料を取り扱いたいというのは、学芸員としては当然の欲求であるのだが、人生そこまで思い通りにはいかないものである。
私は運転しながらも進行方向に存在する、仙台や岩手の博物館に思いを馳せた。東北と関東を結び、日本の発展を⾧らく支えてきた奥州街道をこのまま走ていけば、憧れのあの博物館に辿りつけるわけだ。そう思うと、何だか不思議な心持ちになり、あやうく本来の目的を忘れそうになった。「あ、じゃあ磯貝さん、そろそろどこかで右に曲がらないと」
内田の声で、目的地が富岡町であることを思い出す。
本来S町から富岡町まで行くのなら、高速道路であれば北関東自動車道と常磐道で茨城を経由するのが最速の道筋である。ただ、S町が日光街道の宿場町として町のアピールをしていることや、私が日光街道や奥州街道の文化に興味があることを勘案し、今回、国道4号をひたすら北上する進路を提案したのであった。
「ああ、いよいよだね、ここから⾧いけど、まあゆっくり行こうか」
福島県内の道は綺麗に整備されていて、国道を除けば隘路(あいろ)の多いS町近辺より、車を走らすのは遥かに快適だった。軽自動車といえども、開放的なドライブというのは楽しいものだ。
西郷村からは富岡町までは二時間以上かかるので、途中、平田村の『道の駅ひらた』にて休憩することにしたが、ここで明らかに内田から元気がなくなていることに気づいた。
「朝早かったからじゃあないよな」
賑わいを見せる道の駅に対し、内田が発する気配はどこかどんよりしていた。違うとわかりながらも、一応睡眠不足を指摘してみた。
「ええ、まあ10年以上前のことなので、記憶が曖昧にはなっているんですが、ここから先はあの時避難してきた道なんですよね」
内田の発言は予想した種類のものだった。私が今回の往路の道筋を提案した時、彼の面持ちには熟慮の痕跡があった。だが、彼自身がトラウマに立ち向かおうというのなら、仮にも親友を標榜する身としては、安易に止めるわけにも、また無闇にけしかけるわけにもいかないだろうと思い、今回この進路を取りたいと申し出たのである。
「辛かったら、やめとくかい?」
だが、俯いた彼の様子を見ると、その決心も鈍ったようで、自然と気遣いの言葉が出た。
「いや、行きましょう。磯貝さん、アーカイブ・ミュージアム見たいんでしょ?」
内田が無理やり笑みを浮かべた、今度はこちらの心情が見透かされたようだ。私には博物館のためなら、他のものは犠牲にする覚悟があった。それは、既に彼も良く知るところだ。
川内村や、倒壊したまま放置された住宅の前を通ったとき、また少し内田が消沈したものの、何とか第一の目的地である『とみおかアーカイブ・ミュージアム』に到着した。
内田には悪いが、私はこの博物館の質実剛健な外観を見た瞬間に、すっかり興味を奪われてしまった。地上三階建ての鉄骨造りで、外観のほとんどが直線で構成される目の前の建築は、博物館本来の機能である、資料の収集・保管に対し真摯であることを見る者に語りかけてくるようだった。
近年では凝った外観を目指した結果、資料を保管する施設としての機能性を損なう博物館も多く、そういったデザイン性を重視した館と、この館が真逆の存在であることは一見して理解できたのである。
「立派な建物だなあ、復興の狼煙に相応しいじゃないか」
内田に語りかけたのか、独り言なのか、自分でもわからない言葉が口を衝いて出た。
ミュージアムとは、古代ギリシャの学堂(がくどう)を指す「ムセイオン」が転じた言葉だ。今となっては両者が指し示す意味には違いがあるが、今も人の文化を研究するための施設であることには変わらない。したがって、ミュージアムの存在する場所は、人が住まうに相応しい場所であるというのが私の中で持論としてあり、このような独白めいた言葉となったのだと思う。
「うおお、すげえ」
自動ドアが開くと、眼前に二階まで吹き抜けになっているエントランスが広がった。来館者それほどいなかったこともあり、率直に感嘆の声をあげる。
「たしかに、これはすごいですね……」
内田も、目の前に広がった空間美に驚きの声を上げた。エントランスはただ広いばかりではなく、シアターや商店街などの模型もあり、往時の富岡町を偲ぶことができる構成だった。
館内を歩きながら、内田と意見を交わす。震災の記憶と記録を伝えるための施設ではあるものの、常設展示室では、富岡の歴史全般を取り扱っており、縄文土器や古墳群から出土した鉄器なども見事なものだった。
「いやあ、すごいな。施設は県立博物館レベルだし、震災以外の展示も見応え十分だ」
アーカイブ・ミュージアム、無理やり日本語にするとしたら『記録保存のための博物館』であろうか。私はその名前や被災地の印象から、もう少し『被災』をテーマにした博物館であると先入観をもっていたが、常設展示をつぶさに見ると、富岡を一つの自治体として誠実に捉えようとする姿勢が伝わってくる。と言っても、当然だが、この博物館が町を襲 た複合災害を軽視しているわけではない。
「磯貝さん、あっちに行ってみませんか?」
普段は柔和な内田の顔が、険しいものへと変化している。理由は明白だ、展示室内には、一度見た者の心を捉えて離さない展示品が展示されており、遠くからでも我々の心を大いに揺さぶったからである。
その展示品は、室内のどこからでも視認できるため、内田も私も、後回しにするのが難しくなってきた。
「やっぱりあれが『象 徴展示(しょうちょうてんじ)』だよなあ」
博物館の展示技法のひとつに『象徴展示』というものがある。その館、あるいは展示室の特性が一目でわかる展示品を意味する博物館学の用語だ。縄文土器が有名な博物館であれば縄文土器の優品(残りがよかたり、土器の特色がよく現れているもの)が採用されたりもするし、自然科学の博物館では、化石の発掘現場を再現したジオラマが象徴展示として扱われたりもしている。
この展示室の中でも、一際視線を集める『津波で流されたパトカー』は、まさにこの町に起きたことを、一瞬で来館者に伝えることができる『象徴展示』であった。
車体はひしゃげ、あちこちに腐食の痕跡が見えていた。車に関しては全くの素人であるが、パトカー に採用されるような頑丈な車をここまで損傷させる、津波の恐ろしさが伝わってくる。
キャプションを読むと、更に詳細がわかった。震災のあの日、町民の避難誘導にあたった二人の警官が乗っていたこのパトカーは、町民有志によって保全が訴えられたという。震災遺産として遺されたその経緯もまた、私の心を強く打った。パトカーの前に立ち尽くした内田は、それ以上の感銘を受けているのであろう。
アーカイブ・ミュージアムを後にした私たちは、近くのスーパーの小さなフードコートで遅い昼食を摂り、その後廃炉資料館(はいろしりょうかん)を見学した。
廃炉資料館は予約制だったので、一瞬肝を冷やしたが、コースに空きがあるとのことで、最後の見学の回に何とか滑り込むことができた。見学を終えても、日暮れにはまだ時間があったので、令和二年に避難指示が解除された夜ノ森駅を訪れることにした。内田の家の跡地も近くにあるらしく、車内には今までとはまた違う空気が流れた。
「もう、実家は取り壊したんですが、取り壊しには父と母が立ち会ったので、俺は避難してから初めて見ることになりますね……」
夜ノ森駅までの道のりは、内田の記憶との対照もあり、多くの言葉が交わされることになった。再訪の歓喜と喪失の悲愴が入り乱れているようで、彼の顔色は短い間に何度も変化した。たどり着いた駅舎は、新しく整備されたものらしく、彼の思い出の風景は様変わりしているという。
続けて内田の実家にも行ってみた。すっかり空き地となっていたが、郷愁に浸る内田は、しばし家の前で足を止めていた。その様子に大いに共感を抱きながら、私は年若い親友が再び動くのを待った。
内田の中で様々な情報が消化されているのだろう、自宅跡地の帰路から、彼の口数は少なく、私もまた思うところがあり、帰りの車内は旅が始まって以来の静けさになった。この日は町内のホテルで宿をとったのだが、疲れのせいか、夜更かしは余りしなかった
翌朝目覚めると、スマホには、別の部屋に泊まる内田からメッセージが入ていた。朝食バイキングが始まるまでの時間、海岸を散歩しているという内容
だった。
私は身支度を済ませると、内田を追って軽自動車で海岸へと向かった。海岸といっても漁港として整備されているため、駐車場はこれまた整然としていた。
「今日も快晴だな」
太平洋から昇る陽光を浴びる内田は、今日の天気のように晴れ晴れとした顔をしていた。ふと、この時俺は彼が決断したことを悟った。
「おはようございます、磯貝さん」
「おはよう、早いな内田君」
だが、さすがにデリカシーに欠ける私とて、すぐその話を切り出すことはせず、彼と並び海を見た。
「きれいな海だよなあ。昨日廃炉資料館で見たけど、処理水でもヒラメが飼えるくらいだもんなあ」
昨日廃炉資料館で得た知識だが、この旅の時点で、放射性物質を浄化した処理水で海洋生物を飼育する実験が行われていた。
施設では、水槽の中で元気に過ごすヒラメの姿が中継されており、蘇る海が想起されたが、いざ実物の海原を望んでみたら、再生はすでに進み、惨禍の舞台となったことが信じられぬほど美しく穏やかな風景が広がっていた。
「いやあ、本当に綺麗ですよね。ろうそく岩はなくなっちゃいましたけど」
内田は海岸の北を指さし、海岸の名物だった『ろうそく岩』が立っていた場所を教えてくれた。アーカイブ・ミュージアムで紹介されていたため、存在は知っていたが、いざかつての地元民から言われると、また何とも言えないもの悲しさがあった。
波濤の浸食効果で造られた奇勝は、その波濤の最たるもの、津波によって失われたのである。
「……記憶や記録に残っていても、喪うってのは辛いことだよな」
今回の旅行を通し、過去の記憶が蘇ったのは内田だけではない、私もまた悲惨な過去を思い出しながら、彼に返答した。
「――磯貝さん、俺やっぱり、富岡町の採用試験受けようと思います」
暖かい陽光の中、内田が言った。穏やかな水面に散る光は眩しかったが、彼の決意に満ちた横顔ははっきりと見ることができた。
「そうか、もう決めたんだな」
結果的にだが、前途有望な職員を町外に流出させてしまったことを、S町の上層部に心の中で謝りつつも、友として内田の決意に水を差すことはできなかた。今まで、私自身がより良い条件、より良い環境を目指して転職を繰り返してきた手前、彼を止めることはできなかった。
今日にいたるまで、私は常に見送られる側にいたが、今初めて見送る側にな
りそうだった。
「転職や試験に関しては、けっこうノウハウがあるから、まあ必要あれば聞いてくれ。それと、そろそろバイキング始まるし、ホテルに戻ろうか」
静かに打ち寄せる波の音は心地よく、つい足を止めそうになるが、ここに⾧居するのも後々の旅程に響きそうだった。
旅行二日目は、お互いにいわき市を観光したいと思ったこともあり、まず富岡町から国道6号を南下することにした。
「いわゆる浜街道って言われていた道を下ることにしよう。このあたりなら岩城街道という呼称なんだけど、奥州街道以上に名前が細かく分かれるからなあ」
海岸線を走りながら、またも街道の説明をするが、奥州街道に比べてこちらの知識はないため、内田への解説も自信なく始まった。だが、内田の興味はすかり転職に向けられていたため、あまり歴史の知識を語る場面はなかった。
「昔、富岡に住んでいたことは、当然問われますよね」
「そうだね、履歴書やエントリーシートに書くだろうし、まあでも最近Uターン転職とか、Iターン転職とか流行りだから、理由に関しては問題ないと思うけど」
富岡町に就職する理由も強い内田であれば、面接に関しては問題ないと思われた。また、多くの自治体で行われる筆記による一次試験も、一度S町の公務員試験を通っている彼ならば難しくないだろう。
「磯貝さんなら、どういう志望動機にします?」
今までありとあらゆる就職の試験において、志望動機を捻出してきた身からすれば、この質問の答えには困らなかった。だが、ふと目にした空と海の青さと穏やかさが、心を緩ませたようで、私は内田に、思いがけない返答をしてしまった。
「そうだね、俺の場合は、時折面接官に、なんで故郷を離れて遠くで就職するのって聞かれるんだが……、正直に火事で実家を失ったことを言うと落ちる気がするから、なるべくポジティブブな理由にするかな」
運転中であるために、同乗者の顔を伺うことはできなかったが、助手席の内田が息を呑むのはわかった。
内田がこの旅行を通して、彼の人生を大きく左右した震災について語ってくれたことを考えれば、俺もまた自分の人生を大きく変えた、我が家を襲った不幸について話をすることも悪くないのかもしれない。
「当時は神奈川で働いていたから、直接見たわけじゃないんだけどさ。俺の群馬の家、隣の町工場からでた火事のもらい火で全焼しちゃってさ――」
振り返ってみれば、正規の学芸員を目指す過程において、あの罹災の時こそ、本当の意味で覚悟が決まった瞬間だったのかもしれない。
背水の陣、と表現するとやや皮肉めいてしまうが、あの火事によって、俺の帰るべき場所は焼失してしまった。前に進む以外の進路がなくなってしまったのだ。
「立ち直るのにはけっこう時間が必要だったよ、それこそ最初のうちは焼肉行て火を見るだけでもテンション下がっちゃってさ」
旅の契機となった焼肉屋での会話を思い出す。火を見ながら友と談笑する、そういった当たり前のことができなくなっていた日々を思えば、随分と立ち直たものだ。
「こういう不幸ってのは、人によって状況が千差万別だから、なんとも言えないけど。内田君が故郷をまだ愛せているなら、帰るのも良いと思う。富岡町の試験も通ると思うよ」
車窓からは、変わらず潮風が流れ込んでくるが、自分が語ったことで、両者の間に流れる空気が変化していた。互いの過去を開示したことで、年も職種も違う二人が、ともに家を失ったものとして、理解しあえる境遇に到達したように思えた。
「そうですね……、磯貝さんのその状況だと、なかなか生まれ育った場所に帰ろうとはなりませんよね」
年若い親友が言葉を選んでくれていることに大きな感謝と、若干の後悔を抱きながらも、私は続けて言葉を紡いだ。
「まあ、消防や警察の対応も杜撰だったからさ。俺の場合、もう一度故郷を好きになるのは難しいけど、おかげで新天地に行くのに躊躇することがなくなたのは良かったかな」
偽らざる思いを声に出すと、もはや両者には何のわだかまりもなくなり、道中はまた賑やかなものとなった。
6号線を下り訪れたいわき市域の広さに驚きながらも、小名浜港あたりに近づくと、その栄え方にも目を見張るものがあった。
「いわき市って、すごい栄えているんだなあ」
「ええ、仙台に次ぐ人口を擁する東北二番目の都市ですからね。このあたり、小名浜地区も賑わっていますが、平地区も色々あるので富岡に住んでいた頃は、よく遊びに行きましたね。ラトブとか」
私が小名浜の風景に目を丸くしていると、すかさず内田が解説してくれた。仙台の人口が最も多いのは当然として、次点は郡山市か盛岡市ではとの先入観があり、素直に驚いてしまった。
なお、後から分かったことだが、この時点でいわき市と郡山市の人口数の逆転が起きていたらしい。だが、いわき市の文化圏としての隆盛には陰りは見えなかった。
内田と小名浜港を観光し、寿司を食べた後、また浜街道の南下を再開する。有名な観光地は多々あれど、様々な感情の高ぶりから、私も内田もこの時点でやや疲弊していたため、私は静かな目的地を提案することにした。
「なあ、内田君、『勿来関(なこそのせき)』に行ってみないか?」
内田はその名称にピンときてなか たが、歴史や文学に興味があるものからすれば、『勿来関』は福島旅行においては外せない場所だ。往路で近くを通った『白河関』とともに奥羽三関(おううさんかん)に数えられるが、『白河関』に比べると歴史資料の記述が少なく、和歌で枕詞として多用されるため、どちらかと言えば文学の世界での印象が強いかもしれない。
「『勿来関』、つまり『勿』と『来』の間にレ点が入って、『来る勿(なか)れ』って解釈されることもあるんだけど」
勿来の関公園の駐車場に到着し、公園内を散策している時だった。私は『勿来関』の説明が書かれた碑を題材に、内田にちょっとした説明をしてみた。
「なるほど、漢文として読めるわけですか。中高生の時苦手だったけど、これならわかりますよ」
「まあこの碑に書かれているように、所説色々あるんだけどさ。ここが東北と関東の境だったのは確かだとは思うよ」
来たかった場所を訪れ、私は自分の頭の中にある知識や感情に思いを馳せた。今回の旅情が更に東北地方への憧れを募らせたようだった。
「あー、内田君も転職か」
内田がトイレに向かい、一人になり少し時間を持て余した際、つい独り言が出た。
S町は、職場としては不満のない場所だが、仕事内容として発掘調査等に比重が寄ってより、本来の専門域である古文書を取り扱う機会は稀であった。内田の話に触発されたこともあってか、俺はついスマートフォンで、かつてよく覗いていた、ある『掲示板』を検索した。
学芸員の業界では有名なのだが、学芸員の採用情報を共有するインターネット掲示板というものが存在する。嘱託時代や、千葉での過酷な労働をしていた時は、つねにこの掲示板と睨めっこしていた。S町に勤務してから見る機会は少なくなっていたのだが――
「まずいな、どうしよう」
掲示板の最新の更新で岩手県の博物館での採用情報が出ていた。私が卒業研究で用いた資料を有する博物館だった。採用条件情報を見ると、年齢要件などもギリギリではあったものの、応募可能な年齢だった。
S町には拾ってもらった恩がある。内田君以外にも親しい職員がいる。繰り返すようだが、労働環境は悪くない。だが、俺はすっかり、この旅の往路で通た、奥州街道の先を見たくなってしまっていた。
今、私が立っているのは『勿来関』だ。だが、世界には、来る勿れと言われても、なお行きたいところというものが存在する。
年若い親友に倣い、私の中で、再び東北の地を目指したいという欲求が燃え 上がっていた。