岩手・宮城・福島MIRAI文学賞・映像賞

岩手・宮城・福島MIRAI文学賞・映像賞2024
3県のミライを綴る「文学賞」
受賞作品

四十八物語
森本 翔太

 繋いだ手を離したらもう振り返らない。滑らかにホームを滑っていくこまち。視界は置いて行かれたはやぶさにはもう構わず人垣に埋もれていくこまちを追うようにズームした。
「お、おい、痛えな」
 不意に右耳から少し舌っ足らずな男の声が聞こえた。
「あ…すみません…」
 その瞬間僕は耳からイヤホンをむしり取った。ピーンポーン。誰もいないコンコースに間延びしたチャイムが響き渡る。東京から3時間もかけてやっとやってきた雫石駅は呆気ない程閑散としていた。待合スペースのベンチで、僕はため息と共に背もたれに寄り掛かった。情けない声だな。新幹線が盛岡駅に着いた時、物珍しさからこまちとはやぶさの切り離し作業を動画で撮っていた。撮ったは良いもののひ弱な鉄オタに絡まれるわ、情けない自分の声が入っているわ、見返しても何の感動もないわでうんざりとした僕は速攻で動画を削除した。ふと視線を上げると窓口から駅員がこちらを怪しむような視線を向けてる。制服で来たのは失敗だったか。さっきも駅の売店でおばさんに言われたんだった。
「ここらでみない制服だね」
 補導とかされないよな。腕時計を見ると待ち合わせの時間までまだ5分ほど早く、気まずさと共に僕はそそくさと席を立って駅舎の中を探検する事にした。なんとなしに左手の連絡通路に向かってみると、暗い通路の天井に青い照明が灯されており、そこに鳥や犬、羊などの動物がプラネタリウムのようにぼんやりと浮かび上が ていた。案内板によるとこの町は宮沢賢治にゆかりがあるらしい。銀河鉄道の夜、か。スピーカーからは東京オリンピックの開会式で も聴いた懐かしい感じのあの曲が薄く流れている。僕はスマホを取り出し何枚かそのプラネタリウムを写真に収めた。こんなんじゃないんだけどなあ。躍起になってブツブツ言いながら撮っては消し撮っては消しを繰り返していたところ、
「写真が好きなのかい?」
 と低くて深い声が後ろから聞こえてきた。振り返ると、そこには体格が良く豊かな顎鬚で顔を覆われた男性と小学校中学年くらいの髪の短い女の子が立っていた。
「拓斗君ですか?」
 顎鬚をもしゃもしゃやりながら男はまた聞いてきた。僕はなんだかバツが悪くなって「遠藤さんですか?」とぶっきらぼうに質問で返した。遠藤さんは小さな瞳をしぱしぱさせてコクリと頷くと手をこちらに差し出してきた。鍋つかみのような大きな手。僕の掌はガサガサした暖かなその手にすっぽり覆われた。
「あたし美奈!小学3年生!」
 美奈ちゃんは紅葉のような血色の良い小さな手を差し出してきた。
「あっどうも…」
 僕は冷たくて柔らかな掌を壊さないようにそっと握るも、美奈ちゃんは僕の遠慮もお構いなしに繋いだ手をブンブン振って応える。遠藤さんは僕をまじまじ見つめてうんうんと嬉しそうに頷いたが何も言わず、少しばかりの気まずさが渦巻いた後、気づいたように「それじゃあ、行こうか」と微笑んだ。サンダルをパタパタさせながら階段を下りていく美奈ちゃんと追いかける遠藤さんをぼうっと眺めながら僕は二人の後を着いていく。父さんにバレないと良いけど…。ノロノロと階段を降りきった僕は重いガラスの扉を開いた。八月の鋭い日差しと生暖かい風は容赦なく僕を打ち抜いてくる。と、眩しさに目を細めながら顔を上げた僕の目の前を不意に何かがフワリと横切った。
「トンボ…?」
 雲一つない青空に無数の赤い点が漂っている。ポカンと佇む僕を見て遠藤さんは目を細めながら空を眺める。
「トンボって秋の虫だと思うよね。実は夏の間は涼しい場所にいるんだ。こっちは山が深いからね。彼らにとっての避暑地ってわけさ」
「あれがねーショウジョウトンボ。あれがオニヤンマであれがアキアカネ」
そう教えてくれる美奈ちゃんはトンボが動くたび「じっとしてて!今教えてるんだから!」とプリプリしている。本当に北国に来たんだなあ。美奈ちゃんに相槌を打ちながら軽自動車の助手席に乗り込むと、車はゆったりと駅を後にして商店街を走っていった。トンボ講座に気をよくした美奈ちゃんは「あれがよく行く弁当屋さん」「電球を買うのはこの電気屋さん」「パパが酔っ払って迎えに行った居酒屋さん」と忙しく教えてくれる。僕はその一つ一つにいるはずのない人の姿を探そうとしたが、面影すら曖昧になってしまったその人は当然のようにどこにも見当たらず、小ぢんまりとした店がギュウギュウに詰まった商店街はあっという間に通り過ぎてしまった。
「すまないが少し寄り道していいかい?」
 そう言って遠藤さんは曲がりくねった住宅地へ車を走らせていく。農作業中の夫婦や無人産直所を横目に見ながら少し進むとそのうちになだらかな上り坂になっていく。家々の高さを車が超えた当たりで、空に向かって橋が架かっているのが見えた。ナビには葛根田橋と表示されている。助手席の視界一面が青色となり、坂を上り切った橋の真ん中で遠藤さんは車を停めた。
「見渡してごらん」
 遠藤さんに言われるまま、僕は夏空の中に降り立った。
「うわ…すごい…」
 僕は山に抱かれていた。見渡す限りの青々とした田園は風の通り道を示している。手を伸ばせば届きそうな所に連なるなだらかな稜線は前後左右から僕を取り囲んでいて、その中でもひときわ大きな山が、ゆりかごを覗き込む母親のように橋の上にポツンと佇む僕を見下ろしていた。
「あれが岩手山、優子さんが好きだったんだ 」
 いつの間にか隣にいた美奈ちゃんは両手を広げてトンボのようにゆらゆら揺れている。
「パノラマで写真撮ってみるかい?」
「いや…」
 スマホを準備する時間すら勿体ない。この風の、この色の、この匂いの中にずっと浸っていたい。遠藤さんはそんな僕の心中を察してにっこり笑って岩手山のほうに顔を向けた。
「ここはね、優子さんがとても好きだった場所なんだ。買い物とかの帰りは必ずここに寄ってね。時間を忘れて景色を楽しんでいたよ」
 この町は、そう、この町は僕の母の生まれた場所で、亡くなった場所だった。
 母がいなくなったのは、僕が小学四年生の秋頃だった。その日僕は目覚ましの音を聴く事なく目覚めた。カーテンから細く伸びた朝日は、枕元の置時計を照らしていた。寝起きのぼうっとしたまどろみは、コチコチと時を刻む時計が8時半を指していた事で一気に弾けた。布団から跳ね起きた僕はあわてて廊下に出た。居間からはテレビの音。なかなか起きてこない僕に母は怒ってるに違いない。ヒタヒタと廊下を歩きながら言い訳をあれこれ考えるも観念してリビングのドアをそっと開けると、父がソファに腰かけてタバコを吸っていた。その姿を見た瞬間、僕は射すくめられたようにその場に固まってしまった。今度は正座か、それとも反省文だろうか。父はこちらに気づいたようで真っ赤に充血した鋭い視線をこちらに向けた。
「拓斗ぉ…」
「いや、あの、目覚ましをかけ忘れたみたいで、それで寝坊しちゃっ 、してしまいました。ごめんなさい、急いで学校行くから」
 そう言った僕の言葉が聞こえなかったか、父は音を立てて缶ビールを煽った。ビール?見ると父の足元には3、4個ほどの空き缶が転がっている。何か変だ。忙しい父さんが平日のこんな時間に家にいるなんて。父は大きく息を吐いて今しがた飲み干した缶に短くなった煙草を放り込んだ。香ばしくて苦いにおいがムッ と立ち上り父はまた「拓斗ぉ 」とこちらに視線を向けた。
「母さんが出ていった」
 父はクシャクシャになった一枚の紙を僕に差し出した。僕は震える手でそれを受け取り、母の字で書かれた短い手紙を読んだが、「あ …」といううめき声が乾いた口から洩れるばかりだった。
「なんでだろうな……」
 父は新しい煙草に火をつけ、重い煙を吐いた。
「なんでだろうな……」
 煙のゆくえを見つめて繰り返す父の声は少しだけ震えていた。
 
 母がいなくなってから父はその私物をすべて処分した上、住み慣れた家からの引っ越しも勝手に決めてしまった。もう戻ってこない確信もあったのだろうし、近所に対してきまりが悪かったのだろう。失踪当初母はよく夢の中に出てきた。母は何もなかったかのように得意のカレーを作っていたり、居間で本を読んでいたり、僕に話しかけたりしてきたが、失踪から1年2年と経つにつれ夢の中の母の顔がひどく不鮮明になっていった。その声や、においや、手の感触までもが記憶から零れ落ちていく。その度に僕はこっそり隠し持 ていた写真アルバムを確認するが、こちらに笑顔を向ける写真の中のその人が母であたのか徐々に自信が持てなくなってきていた。それほどまでに失踪前の母はどこにも出かけずふさぎ込み、笑顔を見せる事がなくなてしまっていた。
 
 その手紙が届いたのは失踪から7年経った今年の年明けだった。学校から帰ると、郵便受けに父宛の手紙が入っていた。差出人の名前に覚えはなかったが、住所を確認した途端全身の血が一気に沸騰する感覚を覚えた。岩手県岩手郡雫石町。母の出身地だ。バタバタと自分の部屋に入り鍵をかけると僕は封筒をびりびりと開けた。言う事を聞かない手を縺れさせながら中の手紙を開く。便せんにびっしり並んでいるその文字の羅列の中で、僕の目は手紙の中ほどにある「優子さんの葬儀…」という文言に吸い寄せられた。母さん、死んだの…?火照った身体に冷水を被せられたような心地がして、呆然としつつも目は手紙の字を追っていく。同居していた母が亡くなりこちらの方で勝手に葬儀を済ませてしまった事。婚姻関係を維持している父に一度線香だけでも上げてもらえないかという事。何度か連絡して断られたが、やはりもう一度考えてほしいと思い手紙を送 たという事。何度も何度も読み返し、僕はベッドに仰向けに倒れこんだ。母の死を隠していた父への怒りは今更湧かなかった。手紙の最後に携帯番号が書かれてあるのを見て、僕は迷わず番号をプッシュした。のっそり鳴り響くコール音がじれったい。数回のコールの後「…はい」とくぐもった声が聞こえた。
「久保優子は本当に亡くなったんですか ⁉」
 受話器の向こうからはっと息をのむ音が微かに聞こえた。
「あなたは…」
「今日手紙届いて、読みました。あの 、僕、息子の拓斗です。久保優子の息子です!」
 ややあって「お父さんは君に伝えていなかったのか…」とひどく沈痛な声が聞こえたが僕はそれを無視した。
「あの 、母はどうして亡くなったのですか?いつくらいに?」
「昨年の10月位だよ、稲刈り中に突然倒れてね。心臓が悪かったから…」
 申し訳なかったと続ける遠藤さんに僕は少し苛立った。
「いや、謝ってほしいわけじゃなくて。亡くなった時はすぐにこちらに連絡はくれたんですか?」
「あ 、お父さんに連絡はさせてもらっていた。優子さんの携帯から調べて…君に伝わってなかったみたいで…」
 遠藤さんは受話器の向こうで頭を下げているような声でそう言った。
「僕すぐにそちらに向かいます。明日にでも。良いですよね?」
「お父さんを説得できるならね」
 先ほどまでとは打って変わって毅然とした声が聞こえて、今度は僕が声を詰まらせる番だった。
「明日の朝お父さんに確認をいれてもいい。君は確かまだ高校生だろう?親の同意なしで遠く離れた雫石まで来る事に僕は了承できない。すまないが冷静になってくれ」
 父さんを説得…そんなの一生できるわけがない。そもそも母さんが死んだ事すら隠していたような奴だぞ。
「それに、来るならお盆のほうが良い」
 再び沸騰した僕をなだめるように遠藤さんはゆったりと言った。
「初盆なんだ、久しぶりに帰ってきたところに君がいたら優子さんも喜ぶよ。それに…」
 遠藤さんは意味ありげにいったん言葉を切って言った。
「亡くなる前、優子さんは君に申し訳ないと頻りに言っていたんだ。約束を守れなくて申し訳ないと。君はその約束に心当たりがあるかい?僕はその事について君と話がしたいんだ」
 
 重い瞼を開けて視界にあったのはこちらをのぞき込む美奈ちゃんのニヤニヤ顔だった。窓の外ではすっかり低くなった太陽が山のゆりかごの向こうに隠れようとしていた。少し冷たくなった風が窓際の風鈴をちりんちりんと鳴らしている。
「⾧旅で疲れたんだろう。よく眠っていた」
 遠藤さんが書き物をしていた顔を上げて言った。あれから家に招かれた僕は7年ぶりに母と対面した。遺影と骨壺の乗った簡素な祭壇。遺影の中の母は、記憶の中よりも幾分かふっくらしたようでくたびれたようで、やっと会えたという実感はなく何だか知らない人のように思えた。家の中には読んでいた本や使っていたバッグなどの私物が残されていたが、それらから母のにおいを感じる事の出来なかった僕はすっかり落ち込んでしまった。そうしてどっと疲れていつの間にか眠ってしまったらしい。気恥ずかしさにまごまごしている僕に美奈ちゃんが「じゃーん!」とこちらに何かを差し出してきた。それはシロツメクサの花冠だった。白いふわふわとした花弁が数珠つなぎになっている。
「美奈ちゃんが作ったの?上手だね」
「そうなの!今日優子さんが主役だからね。てかまだこれ出来てないんだよ。拓兄ちゃんが最後に結んだら完成です」
 僕は美奈ちゃんに教わりながら重ねた部分を茎で結んでみた。引っ張りすぎたり折れたりして何本か茎をだめにするのを見越して、予備の茎を用意する美奈ちゃんはしっかり者だった。こうやって植物で遊ぶのいつぶりだろう。そう思っているうちにだんだんコツをつかんできて、ようやく完成した花冠を美奈ちゃんと一緒に母の遺影にかけてやった。
「あたしと拓兄ちゃんからのプレゼントね!嬉しいでしょ ?」
 そう語りかける美奈ちゃんの傍らで遠藤さんが顔を背けながら鼻をすすった。
「そういえばお父さんに無事着いた事を報告しないとね」
 押し殺したように言われた言葉に僕は申し訳ない気持ちになった。
「いや、その…。今日ここに来ることは言ってなくて…」
 父が雫石行きを許してくれる筈がない。貯めていたお年玉をかき集め、密かな逃亡を決意した僕は、学校の勉強合宿と嘘をついて東京を後にしていた。
「すご い!そんなにお年玉残ってたの?私すぐなくなっちゃうのに」
 尊敬のまなざしを見せる美奈ちゃんの頭を撫でながら遠藤さんは「やっぱりね」と苦笑している。
「さあ、そろそろ優子さんを迎えよう。非行少年がいると聞いて飛んでくるかもしれないぞ」
 
 庭先で心地よい風に身をさらし、伸びをする。遠藤さんは薪を格子状に組み、その上に大きな鰹節みたいなものを置いた。
「これは樺の樹皮でね、着火剤に使うんだ。ここいらでは8月13日の迎え盆に家の庭先で薪を燃やして故人を迎えるんだ。故人への目印ってわけさ」
  勢いよく燃え出した火は風に遊ばれてゆらゆら揺れている。モクモクと登っていく煙の先には紫色の星空。星が近い。東京の夜空は真っ黒なのに。
「もっと目立つようにこれもやろーよ!」
 そういった美奈ちゃんはどこからか花火を持ってきた。僕たちはそれを手に、色んな文字を空に向かって描いた。ただ「ここだよ」と伝えたくて、夢中になって母を呼んだ。花火の後は遠藤さん自慢のカレーを食べて、虫の声が微かに響く風呂で身体を伸ばした。温かさに包まれながら廊下に出ると遠藤さんが玄関で靴を履いていた。
「いい湯だったかい?これからね四十八灯をやろうね。」
 四十八灯?その疑問をぶつける前に遠藤さんは闇の中に消えていった。
 
 少し冷えた風と共に玄関に現れた遠藤さんは1メートル四方程の木の枠を抱えていた。それはちょうど「王」の字の上の横棒を短くしたような形で、ドンと土間に置かれて豆電球の下でふわりとほこりが舞い上がった。
「これはね、僕のひいおじいちゃんの代から使っているんだ」
 一つ大きなくしゃみをして、遠藤さんはごしごしと雑巾でふき取りながら言う。
「四十八灯はね、岩手県の北部に昔からある風習なんだ。誰かが亡くなってから3年の間、お盆にこの燭台を家の入口に置いて故人を迎える。蝋燭が燃え尽きるまで故人の思い出話なんかしたりしてね」
 あまりに馴染みのない風習に僕はただ「はぁ」と曖昧な返事を返しただけだった。
「由来なんかは良くわかってなくてね。さっき薪を燃やしたように故人が迷わないようにっていう思いやりかもしれない。でも僕はこう思うんだ、初盆に故人が帰ってきたら突然誰もかまってくれなくて寂しい思いをしてしまう。だから寂しい思いをしないよう、また帰ってきたいと思えるよう、思い出話をして忘れてないよって伝えるためじゃないかなって」
 そのうち汚れの落ちた木の燭台は飴色に輝いてきて、その歴史の⾧さを静かに誇示していた。僕は美奈ちちゃんと手分けして等間隔に蝋燭を立てていく。上の段に12本、中の段に16本、下の段に20本。それら全てに遠藤さんが火を灯していく。全ての蝋燭に火が灯ったのを確認して、遠藤さんは玄関の電気のスイッチを切った。
「おぉ …」
 48本の蝋燭は想像を超える明るさで玄関を一面の夕焼け色に染め上げている。少し開けた引き戸から吹き込む風が、辺りの影を右に左に生き物のように揺らしている。色彩の失われた空間で灯りを見つめながら僕はぼうっとして言った。
「なんだか百物語みたいですね」
 ヤバい、失礼だったか。そう思った瞬間遠藤さんが隣で吹き出していた。美奈ちゃんが「百物語ってなーに?」と聞くのも構わず「なるほど、なるほど」とヒーヒー笑っている。
「そうだね、あれは怪談を語った後に蝋燭を消して、百本消えて真っ暗になった時幽霊が現れるってやつだもんね」
 遠藤さんのほりの浅い顔は、まばゆい夕焼け色の中でのっぺりとしていて、顎髭だけが宙に浮いているみたいだった。
「じゃあ今日は、蝋燭一本消える毎に優子さんについて知っている事や思っている事を話す。そういうやり方にしようじゃないか」
 遠藤さんの提案に美奈ちゃんもさんせーいと手を挙げた。
「48も話せる事、あるかな。出て行ったの7年も前だし」
 そんな僕の言葉に答えてくれたのはりんりんとかすかに鳴く虫の声だけだった。落ち込む僕に遠藤さんがポンと暖かな掌を肩に置いた。
「それなら今日色々と知れば良い、それに話しているうちに思い出す事も有るよ」
 雫石の夜は静かで、ひんやりしていた。上着を取ってきたり、僕の東京での生活について話したりしているうちにふっと一本の蝋燭が消えた。
「あっ!消えたよ!私からね。チョコが大好きなんだよね!」
 美奈ちゃんがピシッと手を挙げて言った。僕はくねくねと立ち上る白い煙を見つめながら考えた。チョコ、食べてたっけ。記憶の中の母はブラックコーヒーを飲みながら猫背で小説を読んでいた。
「そう!コーヒーも好き!パパは砂糖とミルクたっぷりの甘いのが好きなんだよね」
 遠藤さんは恥ずかしそうに頭を掻いている。
「そんなのコーヒーじゃないってよく言われたよ。確かに小説も好きだったね。宮沢賢治が好きだった」
 そうするうちに白く立ち上る煙が2本になった。
「あ、また消えた!今度は拓兄ちゃんね!」
 不意に振られて今度は僕が頭を掻く番だ た。
「なんでも良いから!寝言がすごいとか!あ、これ次言おうと思ってたのに!」
 美奈ちゃんの暴露に僕はつい吹き出してしまった。母さん、そんなに図太くなってたのかよ。
「そうだね、ミスチルとスピッツが好きだったよ」
 同意を求めて二人を見ると、きょとんとした4つの瞳がこちらを見つめていた。
「そうなの?優子さんヒップホップが好きなんだよ」
 マジかよ…随分キャラ変したもんだな、母さん。
「言葉選びとか韻の踏み方の奥が深いって歌詞カードを見ながらよく聴いてたよ」
 僕は開いた口が塞がらなかった。自分が10年間一緒に暮らしていたのは本当に母だったのだろうか。そんなに、父や僕との生活が窮屈だったのか。
 母さん、近くにいるのなら答えてよ。
燭台の46の灯りは隙間風に頼りなさげに揺れている。

 一本、また一本と徐々に消えていく蝋燭と引き換えに語られるエピソードはしかし、端々に母らしさを感じるものもあった。植物を愛していた事。カレーはスパイスから作る事。喧嘩の後に必ずプリンを買ってきてごめんなさいをする事。段々と冷えていく板座に広げられた2冊のアルバムには僕の知っている母と知らない母がいた。父の目から隠しとっていたそれを遠藤さんと美奈ちゃんは楽しそうに眺めている。そうして3人で思い出話を語る中で、僕はようやく母が亡くなった事への実感がじわじわと湧いてくるのを感じていた。蝋燭が半分以上消えた頃、美奈ちゃんがコクリコクリと船をこぎだし、そのうち僕の肩で寝息を立て始めた。遠藤さんは美奈ちゃんにブランケットを掛けてやり、台所から一升瓶と湯飲みを持ってきた。
「拓斗君が来るって今日は張り切っていたからね」
 トクトクと柔らかな音を立てて酒を注いだ遠藤さんは一息に湯飲みを空けた。「美奈は亡くなった妻との子でね。母親がいなくて寂しい思いをさせてたけど、優子さんが家に来てから本当の母のように慕ってくれてね。優しい子なんだ」  
  美奈ちゃんの生糸のような柔らかな髪を、遠藤さんの大きな手が滑っている。
「優子さんが亡くなった時はそれはもうふさぎ込んじゃってね。でも初盆を迎える少し前にね、僕に言ったんだ。明るく、楽しくしなきゃって。久しぶりに会う優子さんに申し訳がないって」
 美奈ちゃんにブランケットをかけなおしながら僕は視線のやり場に困った。様々な感情渦巻く遠藤さんの表情を見る資格が自分には無い気がした。
「また消え…」
「母さんは僕や父さんと暮らす事が嫌で、雫石に帰ってきたんでしょうか」
 近くで蛙が鳴いている。囃し立てるように、糾弾するように。
「僕にはわからない。ただ僕が始めて会った時、優子さんはひどく疲れていた」
 疲れていた…やっぱり…
「広い空と、一面の山が優子さんにとっての拠り所だった事は間違いないと思う。ただ優子さんは東京に残してきた君やお父さんの事を心配していたし、申し訳なく思っていた。それだけはわかっていてほしい」
 ごくりと酒を飲む遠藤さんの喉の音が生々しく響く。少し酔っているのだろうか、その語尾はごにょごにょとつぶれていった。と、また1本灯りがふっと消えた。
「輪廻転生って知ってるかい?」
 遠藤さんがぼんやりとした表情で残り少ない灯りを見つめている。
「インドではね、人は死んだら生まれ変わりを繰り返すっていう考え方なんだ」
 音もなくまた新しい煙が一本立ち上る。
「だけど日本では昔から先祖を迎えるお盆という習慣がある。死者の魂が残るという考え方だよね。日本でも仏教の信者は多いのに、なんでだろうね」
 ジジッと今度は2本同時に灯りが消えた。輪郭だけになった遠藤さんは取付かれたように喋っている。
「日本は昔から災害の多い国だ。地震、台風、津波とかね。それによって誰かがいきなり死んでしまうっていう事がよくあったと思うんだ。残された方が受け入れがたい突然の死が身近にね」
 残っている蝋燭は10本程だろうか。
「また会いたい、また話がしたい、そういう気持ちがお盆という風習を日本に根付かせたんじゃないかな。僕はそう思うんだ」
 話し終わった遠藤さんは蝋燭全てが消えてしまいそうな深い息をついた。
「僕も、母さんの死を、受け入れられてませんでした」
 僕は小さくなった灯りを頼りに持参したアルバムを捲る。母と行ったスーパーや公園、昔住んでたマンション。それらはもう残っていない。絶えず死と再生を繰り返す東京。僕は母への想いを抱えたまま過去と未来の狭間で漂っていたようだ。
「でもこうして、母さんの痕跡が残っている場所で、母さんの話をするうちに、少しその死を受け入れられたような、そんな気がします」
 母の痕跡が抹消された東京の家では、思い出が零れ落ちていく音にすら気が付かなかった。
「だからこそ、母さんが最期に言った、僕との約束を思い出したいんです。最後に振り絞った母さんの言葉を、気持ちを、僕は知らなきゃいけないと思うんです」
 あれから7年。僕が思い出せない約束を母は死の間際まで覚えていた。それを叶えられなかった罪滅ぼしに、せめて、その事を思い出したい。
「優子さんを憎んだ事はなかったのかい?」
 その質問はずるい。でもきっと母は、父以外の誰かと結婚しても、しなかったとしてもそうなってしまっていただろう。
「君は優しいんだね」
「弱いんです。母さんの本心を知るのが怖くて、自分勝手にそういう風に考えてるだけで。僕は、今まで母さんの死に対して逃げていたんだ」
 苛立ち交じりにアルバムを叩きつけるように捲る。ふと開いたページの幼い僕は母の膝の上で、絵本を開いて幸せそうな笑顔を浮かべていた。その写真の裏に、細い紙が1枚斜めになって、角がひょっこり顔を出していた。僕はハッとして、灯りの方に近づいて写真を食い入るように見た。昔住んでたマンションのリビング、宮沢賢治の絵本を持つ僕。巻き戻しの映像が頭の中にギュルギュル飛び込んでくる。僕は震える手で写真の裏のその紙をつかみ一気に引き抜いた。

 とうきょう〜イーハトーブ おとな 1名 こども 1名

 僕が目を見開いたその時、吹き込んだ風が残り全ての蝋燭の灯りをさらっていった。
 
 頭の上から母の声が降り注いでいる。膝の上の僕からは母の表情は見えないけど、柔らかなお日様のような声で語る母の声は心地よかった。目の前には宮沢賢治の絵本。足元には植物図鑑や昆虫図鑑が転がっていた。宮沢賢治の絵本が大好きだった。風が、雲が、太陽が、花が、土が、ざらつきやにおいまでもが感じられる物語に僕は夢中になった。息子が故郷の文学にハマったのがよほど嬉しかったのか、母は物語に出てくる昆虫や植物を求めてよく僕をピクニックに連れ出してくれたりもした。
「雪わたりのきつねさんはどこに住んでいるの?」
「おきなぐさってどこに生えているの?」
 物心ついた好奇心の塊の問いに母は、
「イーハトーブだよ」
 と胸を張って答えてくれた。
「どこにあるの?」
 僕の問いは待ってましたという母の得意げな表情と地図帳が教えてくれた。
龍みたいな形の日本。その首元らへんを母の指がなぞっていく。
「ここがイーハトーブ。ママが生まれた場所だよ」
「ママはきつねの小学校に行った事あるの?」
「ママは無いねえ。でもね、すっごく素敵な場所なんだ。空が広くて星がおっきくて、花や草が生き生きしててね」
 風に揺れる色とりどりの花弁。その茂みからひょっこり顔を出しすきつね。それらを想像して僕はぽかぽかとした温かさにくすぐったくなった。
「僕、イーハトーブに行ってみたいな。きつねの発表会を見て、銀河鉄道に乗るんだ」
「いつか行こうね。イーハトーブはすごく遠いんだ。電車で何時間もかかるから」
「そうだ!僕ママと二人分の切符作るよ。イーハトーブまでの切符」
 そう言った僕の頭を撫でて母さんは満面の笑みを浮かべていた。
 
 微かな月明かりの中、最後に消えた5、6本の蝋燭の煙が身をよじらせている。ふと少し生暖かい風が引き戸の隙間から吹き込んできた。つれない冷えた夜風と違って、その風はいつまでも僕らを包み込むようにその場に浮遊していた。
「優子さん、約束は果たされたよ」
 遠藤さんの鼻に詰まった声が暗闇から聞こえた。母さん…僕は徐々に消えていく灰色の煙を、ただただ見つめていた。
 
「何で起こしてくれなかったの!」
 寝ぼけ眼をこすってやっと焦点が合った視界で美奈ちゃんが目を三角にしている。蝋燭が消えた瞬間寝てた事がよほど悔しかったらしい。視界の隅で遠藤さんがそっと部屋から出ていくのが見えた。
「優子さんに会えたの⁉」
「うん…会えたような、そんな気がしなくもないこともなくって…」
 しどろもどろで答える僕を美奈ちゃんはポカポカ叩いてくる。その矛先はやがてひっそり逃亡した遠藤さんに向いて、矢のように台所に向かった美奈ちゃんは食卓に並べられたフレンチトーストを見ていくらか機嫌を取り戻した。朝食の後身支度を整えた僕は祭壇の前に座る。花冠がかけられた遺影の中の母の表情は心なしか昨日より柔らかに見えた。母さん、やっと会えたね。僕は鈴を鳴らして手を合わせた。うつむき目を閉じて少しあって、頭にファサっとした感触と甘い匂いが立ち上がった。目を開けると美奈ちゃんが悪戯っぽい笑顔を向けて祭壇の脇に立っていた。
「シロツメクサの冠の花言葉って知 てる?」
 僕は頭の上のその細かな花弁を傷つけないようにそっと指で撫でる。
「私を忘れないで、忘れたら呪ってやる。だよ」
「それは大変だね」
 僕は美奈ちゃんと笑いあった。呪いでも良い、母と繋がっている実感が嬉しい。
 
 電車の時間が迫り、遠藤さんの車で駅を目指して昨日通った商店街を逆方向に進む。あの肉屋で夕食のおかずを買ったかもしれない。あの花屋のおばさんと仲良しだったかもしれない。想像の中の母は楽しそうで幸せそうだった。そんなことを考えていたら車はあっという間に駅に到着していた。レトロな洋館みたいな雫石駅はイーハトーブへの、母との約束の地への入り口だった。
「どれ、最後にみんなで写真撮ろうか。三脚持ってきたんだ」
 遠藤さんは僕にというよりかは美奈ちゃんに話しているようだった。美奈ちゃんも元気のない表情でのっそり頷いている。
「いえ、大丈夫です」
 僕はしっかりと、自分に言い聞かせるように言う。
「忘れないよう、呪われないよう、また来ます、必ず。来年の夏、また来ても良いですか?」
 びっくりしたように見開いた遠藤さんの目がゆっくりと細くなっていく。美奈ちゃんは「やったー!絶対ね!絶対ね!」と僕の手を握っている。何度でも来よう、母さんの好きだったイーハトーブの景色を見つけに。駅のほうからひとつ汽笛の音が響いて、僕たちを囲んだトンボが一斉にふわりと舞い上がった。