浸かる、いわきの海に
高戸 一 (たかど はじめ)
僕の目の前に、ふんわりとした水墨画に黄金の金粉を吹きかけたような模様の魚の唐揚げが運ばれてくる。それは、まさに「ご馳走」という風格を帯びてごろごろと並んでいるメヒカリの唐揚げ。今から食らいつきたい気持ちをおさえてから窓から見える小名浜港の方に向かって告げる。
「今年もいただきます」
レモンをひとかけ、そして油の熱さを享受しながら右手で口に運ぶ。プリッとした白身が歯切れともに弾けて、じんわりと深海魚の旨味が口の中全体に伝わる。しかし、クライマックスはここからだ。残りの半身を頬張ると、ほろ苦いはらわたが舌の上でとろけて、磯の香りとレモンの爽やかな酸味が絶妙なハーモニーを奏でる。欲を言えばここで、左手でもって地酒の純米吟醸を啜る、と行きたいところだが、帰りの運転があるから我慢。いや、これは我慢ではなく、いつの日か「いわきのメヒカリと地酒」を達成するためのモチベーションであるとも言える。そんなことを考えながら、ふと、残りの五尾の唐揚げに目をやり微笑む。
この感動を後五回も味わえる。
そう思うとまたよだれが出てきた。見てよし、食べてももちろんよし。人間の喜びがこの食事に込められていると言っても過言ではない。
「まあまあ、本当に美味しそうに食べちゃって」
母は少年のようにはしゃぐ僕を呆れるようにでも幾分嬉しそうに眺めた。二十八になった自分が少年時代の暖かさを思い出していると、続々と他の料理が運ばれてきた。家族四人分の料理が並ぶと、一気にはなやかさが増して、父と姉も意気揚々に写真を撮り始めた。
母が頼んだのははらこ飯。いつも見るいくらの粒よりもっと深い紅色の「はらこ」は西洋画で描かれた宝石のように輝いている。
姉の目の前にはホッキ飯がゴトンッとやってきた。ホッキの身は見ただけでかみごたえの良さと中身の甘さが連想できる彫刻作品のようで、醤油の旨味が染み込んだ米の上で白とピンクのグラデーションが、モダンアートのように美しく映えている。
そして極め付けは、父が頼んだアンコウのどぶ汁だ。名前と混沌とした見た目からは想像できない、ふくよかで何にも例え難いまったりとしたうまい香りが一気に心を和ませてくれる。ぐつぐつと煮立っている音が、一気にこの食卓を盛り立ててくれる。
まるで美術館のように華やかに彩られたこのテーブルと、料理の写真を撮りながら渾身の一口を鑑賞する父や姉を見て、自然と自分も優しく微笑んだ。そして、鞄から取り出した祖父の写真を取り出して、全体が見渡せる場所に優しく立てかける。その祖父は何度見ても七福神のように豪快な笑顔をしている。綺麗な海を背景に、釣り上げた立派な青魚を掴んでいる。十分すぎるほど、この美しい海で育ったことがよく伝わってくる。
我が家は毎年、九月下旬頃になるといわきを訪れる。それは母型の祖父の故郷であるいわきには、やはり特別な思い入れがあるからで、あの日に祖父を失ってから、一種の墓参りに近い行事となっている。それに、祖父が生まれたのも九月の下旬なのだ。
平成二十三年三月十一日、茨城の実家に一緒に暮らしていたじいちゃんはたまたまいわきを訪れていた。古い友人に会う(と言ってもその友人の墓参りかもしれないが)と言ってそのまま帰ってこなかった。そう、文字通り帰ってこなかったのだ。客観的な言葉でいえば「行方不明」と言うやつだが、ある日突然いわきに行ってしまって、大地震が来て、そのまま我が家に帰ってきていない。あの地震が来た時、釣りや海の散歩でもしていたのだろうと、家族では推測している。呑気な性格だったじいちゃんのことだから、海辺の駐車場で困ったものだと思っていたうちに、津波に飲み込まれてしまったのかもしれない。
だから我が家は祖父の誕生日に近い九月になるとこの場所を訪れる。この海のどこかにじいちゃんがいるのだと信じて。
「元気にしてるか?魚になった気分はどうだい?」
といった感じで、肩に力を入れずに毎年ここでじいちゃんに思いを馳せながら、世間も背中を押している被災地への観光も楽しんでいるというわけだ。
しかし、震災後三年後から始まったこのいわき旅行にきているとき、もちろん家族のそれぞれの心の底にはじいちゃんを想う気持ちはあるのだけれど、段々と「いわきを楽しみたい、応援したい」という気持ちが勝ってきていて、じいちゃんが眠っているであろう、ここの海と向き合う気持ちは薄れてきている。
今日だって、いわき到着後にグルメを楽しんで、この後は家族それぞれ別行動でいわきを楽しむ予定だ。私はこの状況に違和感を覚えながらも、「人の死を受け入れていくとはこういうものか」と、自分を納得させてやり過ごしている。
僕は目の前で美味しそうに常磐ものを頬張る家族を横目に、小名浜港の輝く海面を眺めた。一匹のかもめが羽を休めるように海面に浮かんでいる。
その視線の先には、凹凸のある味わい深い湯呑みを横に倒したような山並みが寝そべっていて、この町の豊かな自然を物語っている。この豊かな海は美しいあの山々から送られてくる美しい水が源であり、今僕らが食べている美味しい魚もその賜物なんだ。かもめもきっと、自分の餌の大元はあの山にあることを悟っているのかもしれないな。まるで小学生のような空想をしていると、「じゃあ、そろそろ行こっかね」という母の声が聞こえてきた。山からかもめのいた場所に目を移すと、海面からは忽然とその姿は無くなっていた。
毎度のことながら愛嬌のいい店員さんと会話をしながら会計を済ませる。
「ご来店ありがとうございました。お気をつけて遊んでいってねえ」
「本当にぜんぶおいしかったです。特にめひかり、最高でした」
僕がそういうと、店員さんは照れたような笑顔で返事をしてくれた。
「あら、今日のめひかりは私の夫が取ってきたやつなのよ。伝えとくわね。ありがとう」
「ぜひお願いします。ご馳走様でした」
茨城の県北のなまりを少しなめらかに優しくしたようないわきの訛りに心地よさを覚える。同時に、さっきまでかもめと一緒に感動していたこのいわき
の豊かな自然の中で、人々がその恩恵を享受して生きていることを実感し、毎回のように本当に羨ましいと想う。そして、「じいちゃんのふるさと、こんなに素敵な場所なんだね」と心の中で呟いた。
さて、ここから我が家の別行動が始まる。
父と母は二人の出会った頃の思い出が詰まっている温泉施設へ向かい、姉親子はこの港から歩いていける水族館とショッピングモールで時間を過ごす。
僕は運転手になりきって父母を山に近い温泉施設に下ろした後、自分の最大の目的を果たしに再び海辺に向かって車を走らせる。
目的地は豊間海岸だ。
海を隠すように並んだ要塞のような防波堤沿いに大きく構えられた駐車場に車を停める。そして、皮膚の下で駆け巡る興奮を抑えて深呼吸をする。海パンとロングシャツに着替えて、車の後方にまわる。トランクを開けて、相棒の真っ白なショートボードを取り出した。
いわきの海で、サーフィン。
コロナ禍に始めてから、すっかり虜になってしまったサーフィンを、どうしてもじいちゃんのいるこの海でやってみたかったんだ。
すっかり日焼けして年季の入ったサーフボードを抱えて防波堤の上に立つ。無機質な明るい灰色のコンクリートの水平線から、真っ青で柔らかい水平線が大音量の波の音と共になだれ込んできた。大きな風に全身を包まれて、いわきの自然の中に抱かれている感覚が全身を覆って行った。目の前に広がる景色、聞こえてくる音、体に当たる磯の香りをまとった空気の塊。それらを浴びていると、この地で先祖が暮らしてきた土地への尊敬の思いが一気に溢れてくるようだ。
一歩づつ、海へ歩みを進めていく。
すでにいる数人のサーファーの邪魔にならないように、サーフィンとしてもこの海にとっても初心者の気持ちを忘れずに波に逆らって沖へ進んでいく。
お隣の県といえども、慣れている茨城の海とは異なり、まさに海が呼吸するようなうねりが二〜三分に一度、まとまって大きく岸に向かってくる。そのうねりにうまく乗れたサーファーたちが見事にその斜面を利用して思い思いの動きを付け加えていく。水面から臨場感溢れるその光景を見ていると、漁業だけが人間と海の接点ではないことを改めて思い知らせてくれる。
自信無さげな自分は、人の少ないポイントでじっとその波を待つ。いわきの海は、いつも行く茨城や千葉の海より少し冷たい気がする。それが美味しい魚介の源になっているとも思えるし、何かが引き締まるような気持ちにさえしてくれる。無論、僕の場合は何か背中を正してくれるような気持ちにさえなる。
ボードの上で腹ばいになり、遠くの沖を眺める。うねりはまっすぐに堂々とこちらへ向かってきて、むくむくとまとまって斜面を作り出した。少しずつ顔を出してきた太陽がそれをキラキラと輝かせて、先程までよりも水の色が明るいコバルトブルーになっている。その刹那的に美しい海の姿にみとれながらも、本能的にこの水の塊が持つ重力に身を委ねたいと感じ、一気に両腕で水かきをして推進力を得る。十分に加速したとき、そのうねりは僕のボードのおしりの部分をフワッと上げて、同時に「ここだっ」と一気にボードの上に立ち上がった。
ストン
板に向かって足の裏から根っこでも貼ったかのようにしっかりと重心が安定している。いつもは不安定で目先の水しか見えていないというのに、背中は真っ直ぐとして、胸も大きく開いている。波によって生成された、生き生きとした空気が口に入り込んでくる。そして、いわきの大きくて青い海が目の前に広がっている。波に乗りながら、風を切って進んでいく。そう。風に当たっているのではなく、自分が波の上で風となって岸に向かっているのだ。そんな地球のエネルギーの波動の一部になっている心地よさに抱かれながら見る波しぶきや透き通った青い水平線の景色は、まるで浮世絵のような迫力と臨場感、そのものだった。
いわきの波は長かった。乗っている波は段々と小さくなったと思いきや、いつの間にか目の前の波に追いついて、結合して、また加速しながら高さも倍増した。荒々しくて生き生きとした波に身を委ねて、僕は必死に、けれど心地よく風を切っていった。その時、目に見えたもの「あ」っと、思わず声をあげてしまった。
横に広がる波のずっと真っ直ぐ、三キロは先だろうか。防波堤の上でポツンと釣りをしている老人と目があった。蜃気楼の中でゆらゆらと揺れているその釣り人は、まるで僕の波乗りを褒め称えるように片手で釣り竿を握り直し、もう片方の手でガッツポーズを送ってくれる。それは、幼い頃からそうしてきたじいちゃんのガッツポーズにそっくりだった。僕は反射的にそのガッツポーズに応えようと、両手でガッツポーズを返した。その瞬間、一気に体勢を崩して、僕は爽快な青色の水の中へ吸い込まれた。いつもは体を打つような痛みを伴う水面も、なぜかとろみのあるような感覚で包み込んでくれて、呼吸も全く苦しくない。あれだけ大きな波だったというのに、海の中は穏やかで、生きているのか疑いたくなるほど、この世のものとは思えない静けさと暖かさで満ちていた。
ゆっくりと頭を水面に出す。本能的に、あの釣り人がいた方向に頭を回した。防波堤には不思議と誰も人がいないようだ。
三メートル近いサーフボードの上に腹ばいになったサーファーが横を通り過ぎる。
「兄ちゃん、いい波だったな。でも最後はいきなり海に飛び込むなんてなあ」
自分でも覚束ない記憶と向き合いながら応答した。蜃気楼もピタッとなくなっていた。
「波に二回乗ったんです。途中から前の波と合流して。そしたら、あっちにいた釣り人と目が合って、そしたら海の中です」
サーファーはそうかそうかと言いながら、笑顔を見せて岸に戻って行った。
「そうだよな。釣り人と目がってガッツポーズしたことなんて、他人にはどうでもいいことだよな」
心の中で呟きながら、僕は次の波に向かって、沖に戻っていった。
結局、その後は防波堤が気になってしまい、いい波に乗ることができなかった。毎回そうだが、最初の波乗りが一番疲れがなくて質の高いできになる。今回も同様なのだが、それとは別のパワーがあったような気さえする。
いつもは疲労困憊なはずが、この日は我が家にとっては特別で、そして誰が見ても綺麗な水の中でその一部に慣れたような感覚が心地よく、源泉の温泉に入った後のような英気を養った感覚を味わっていた。
岸に上がり、駐車場へ向かった。駐車場周辺には、トイレやシャワーが十分に整備されている。誰もいないシャワーで悠々と体とサーフボードから砂つぶを洗い流した。サーフボードにかかる水を全体に広げながら撫でるように砂つぶを落とすその様子は、まるでじいちゃんが大工時代にかんなで木材を均している姿の記憶と重なった。
「なんでこんなにじいちゃんのこと、思い出すんだろ」
サーフィン後の心地よさの中に若干の違和感を残しながら着替え、もう一度コンクリートの上に立ち、先ほどの釣り人がいた防波堤を眺めた。やはり誰もいない。しかし、その上の丘にある灯台はこじんまりと海を眺めていて、自然と見守られているような気持ちになった。持っていたスマートフォンで海の写真を撮り、SNSに投稿した。東北地方なのに、まるで南国のような淡い青色を帯びたこの美しい海の色を、多くの人に見て欲しかったからだ。
トイレで用を済ませると、付近に慰霊碑が置かれていた。慰霊碑という存在をまじまじと眺めるのは、きっとこれが初めてだ。『豊間地区犠牲者慰霊碑』。その慰霊碑には海岸沿いで人々が生活していた街の様子が描かれていた。ここには今でこそ立派な要塞のようなコンクリートの防波堤ができていて、防砂林や駐車場、トイレやシャワーがあるけれども、ここには確かに人々の営みがあった。それを、このいわきの海のあの日の津波は押し流してしまった。家や畑や人々を。そしてきっと、じいちゃんもそこにいたのだろう。おそらく、この町に津波が来たのは、あの日が初めてではなかったのだろう。ここに住んできた人間は何百年間かに一度、そうやって津波と向き合ってきたのだと思う。そして、今この要塞ができた。だからといって、安心はできない。あの規模の津波はまた数百年後に必ずやってきて、この要塞に容赦なく自然の力の偉大さをぶつけてくるのだろう。ここの波は強い。自分がさっきまで乗っていた波は自然の恵みを象徴するような温かみとある波だったが、きっとあの日ここを襲った波は、恐ろしい音と匂いを立てながら、この地に
押し寄せたのだとろう。じいちゃんもきっと、その中に。
慰霊碑に静かに合唱をし、僕は家族を迎えに駐車場を出た。日は白昼とも夕方ともいえぬ、こんもりとして黄色みを帯びていた。
父母、姉親子は思い思いの時間を過ごしたようで、晴れ晴れとした表情をしていた。特に、父は源泉のお風呂に長居していたらしく、独特の香りを漂わせていた。
「父さんの香りなんだかすごいね。そのまま地球の奥底の湯みたいない香りする」
姉さんが気さくに語りかけた。
「ああ、山の温泉と違って、いわきの湯は海水っぽい塩味が合って、なんだか柔らかいんだよなあ」
僕は無意識に反応してしまった。
「そう。いわきの海の水は柔らかいんだよ。海の水も、なんかとろっとしてたよ」
家族は一気に笑いに包まれた。
「波の違いがわかる男なんだな。お前は」
僕は大人たちにおちょくられた少年のように決まりが悪くなった。しかし、助手席の母だけは優しい目つきをしていた。
「いわきの海でサーフィンしたんだっけ?」
「うん。豊間海岸ってとこ。津波が来た町らしいよ」
「そう」
母は力無く答えて、道路の先をまっすぐ見つめていた。山が延々と連なっているような景色だった。
「みんなごめん。その海、見に行ってもいいかしら」
いつも控えめな母が急に持ちかけた提案に、家族は驚きを隠せなかった。
「うん。行こうよ。時間はまだ遅すぎないから」
その海に浸かったのは自分だ。そして運転しているのも自分だ。そして祖父と直接血がつながっている母が何かを特別な感情を抱いているのが、隣から物言わずがな伝わっていた。
「30分で往復できると思うよ。行くね」
Uターンをすると、フロントガラスにさっきまで浮かんでいた山々は一気に開けた景色になっていく。少し開けた窓から、磯の柔らかい香りが入り込んできた。
駐車場に到着した。夕暮れ間際だというのに、まだサーファーは二十人近くいるようだ。コンクリートの要塞を超えて目にした海の色は、昼の色と全く異なっていた。背後から刺す黄色い夕日で、まるで白い絹の布のように照らされていた。あの淡い青色は無くなっていて、かといってオレンジや赤に染まるでもなく、真っ白に輝いていた。それは、何か気を引き締めるような白色だった。
甥っ子はその広大な景色に言葉を失うかのようにのめり込んでいる。やはり、我が家の血を引き継いでいるだけあって、海を見ると本能的な感動を覚えているとでもいうのだろうか。
母さんはその海に語りかけるように小さな声でつぶやいた。初めて海を目の前にした少女のように、無垢で希望に満ちた横顔だ。
「この海、連れてきてもらったわ。父さんに。あの灯台と、この綺麗な海。父さんは飽きていた私を無視して、じっと釣りをしていたの」
きっと、その時と今では、岸の様子は全く異なっているだろう。この防波堤はなくて、きっと海と人々の暮らしの境界線はもっと曖昧だったと思う。でも、海は変わらない。灯台もじっと、優しい海も、あの日の恐ろしい海も、無口に見てきたのだろう。
「あの日もきっと、父さんここに来てたのかな。」
「そうかもね。サーフィンしてる時ね、じいちゃんに似た人がいる気がしたんだ」
「あら、そうなの。そっか。そうなのね」
母さんはそういうと、また、少女のように声を殺して糸のような涙をこぼした。驚いた父が、その肩を抱いていた。
白く染まった波を、上手にサーファーが乗りこなしていく。それは穏やかな波の様相とは対照的に、結構な速度で横に滑って行く。
「ごめんなさいね。父さん。私、忘れかけてたわ。ここの海に連れてきてくれたのにね」
なぜだろう。僕たちの背中から吹いていた風がその時だけはピタリと止んだ。そして、海からあの波のような大きくて柔らかい風が流れてきて、僕たち家族を包み込んだ。
「じいちゃん、きっとこの海のどこかにいるんんだね」
「そうね。『俺は浦島太郎の生まれ変わりだ』って、よく言ってたもの」
僕たちは、また柔らかい気持ちになった。不思議と、じいちゃんもそこにいるような気持ちになった。
茨城への帰路の中、後部座席の三人はすっかり眠っていた。
運転しながら、僕は母とあの海について会話をした。
「じいちゃん、行方不明だけどさ、あの海にいるってことでいいんじゃない?」
「そうね。なんか今日、あそこに父さんがいる気がしたの。釣りでもしているんじゃないかって」
僕は少し呼吸を整えた。
「また来年も、あの海に行こうよ。俺、じいちゃんのためにサーフィンするよ」
「そうね。なんだかいつの間にか、いわきを楽しむのが目的になってたわね。それもいいけど、ちゃんと父さんに挨拶してあげなきゃね」
車は合流車線にに差し掛かって、母さんの横顔を見る余裕はなかったが、いつになく凛々しいその声色から、何か清らかな清流のように純粋で引き締まる決意が伝わってきた。僕は、かしこまった雰囲気に気まずくなって口を開いた。
「あのね、実は今日あんまり波に乗れなかったんだ。というか、最初の一回以外は、全く乗れてなくて」
「あらそうなの?じゃあ戻ってまた乗る?」
いつになくフットワークの軽い母親に僕は笑った。
「でもね、波に乗る瞬間よりも、海に浸かっている時間が、最高に気持ちよかったんだ。まるで温泉に浸かってるみたいに」
「そう。きっとおじいちゃんが背中流してもらうの待ってたのかもね」
「かもね。これも立派なは墓参りになるよね」
茨城へ向けて、トンネルが続いた。大小含めて二十個近いトンネルを潜りながら、山と海に囲まれたいわきの景色とは対照的に、段々と関東平野に吸い込まれるような景色が続いていく。
茨城の実家に到着すると、すっかり現実に戻った気持ちになっていた。でもそれは、感覚だけではなく、現実じみたことだった。
スマートフォンを開くと、珍しくSNSにメッセージが届いているようだった。
友人たちからは、僕が投稿した写真の位置情報がいわきだったことに対してのコメントだった。「福島の海、入って大丈夫なの?」とか、中には外国の友人からは「Did you really surf in that Fukushima? (本当にあの福島でサーフィンをしたのか?)」というコメントがついていた。
「ああ、そうさ。I surfed in Fukushima. だっていわきの海は僕にとって特別だから。That is a special beach for me. 」僕は何も躊躇なくそんな返信を返す。
福島について英語で説明をする度に、五年前の米国留学時に直面した福島への認識のギャップの経験を思い出す。僕の出身地についての話になり、地図上で茨城の水戸の辺りを指し示すと、みなそのすぐその上にあるFukushimaに注目する。「メガ地震と津波をお前は生き抜いたのか」とか、「原発の事故で影響は出なかったのか」とか、地震も津波も関係ない中西部の内陸の州の若者達は、歯に衣着せず質問をしてきたものだ。中には頭に来る悪意に満ちたブラックジョークを投げかけてくるものもいたが、大半は純粋に福島全体が未だに放射能の影響で立ち入り禁止となっている認識を持っていた。遠く離れた島国の一部だし、Fukushimaという名前が先行してしまったのだからだと、彼らのその愚直な考え方については何とか飲み込み、自分の可能な限り彼らに福島の正しい姿を伝えたものだ。震災後に自分が撮影してきたいわきの海や裏磐梯の湖沼地帯の写真など、福島県内の美しい自然の写真を見せることで、彼らは福島の本来の魅力について十分に理解してくれた。最も彼らが興味を持ったのは、早朝から食べられる喜多方ラーメンであたことは、忘れることができないよ思い出だ。しかし、このような国際的な個人の交流の魅力は、「留学とはセンチメンタルな情報の交換にある」と、尊敬する教授が教えてくれたことを信念に、地道にその布教を行い、後半ではこの活動にやりがいさえ感じていた。日本語の漢字に少し詳しいアメリカ人からは、福島と広島に共通する「島」という漢字に何か意味があるのではないかと突拍子もないことを問われたりもした。文字のことは置いておいて、広島について何か語ろうとしたとしても、僕は当時広島の原爆資料記念館に訪れたことがなく、赤面の思いをしたものだ。
SNSで今回の僕の投稿を見た知人を含め、海外の人々に伝えたい事は、福島の全体の魅力を再認識してほしいということだ。我が国の典型的な里山のふるさとを象徴するような山と海の恵みで溢れている。まさに、福の島なのだ。
米国留学時代を思い出してから、じいちゃんとの思い出が思い出される。じいちゃんは、テレビで福島についての話題が流されるたびに、よく福島のお里自慢の話をしてくれた。海沿いで育ったじいちゃんにとっては、ふるさととは対照的な福島の山がちな地域の魅力に虜になっていて、特に会津地方について話をしてくれた。印象に残っているのは、白虎隊の歴史の話と、磐梯山の火山噴火の話だ。それらをまるでシェイクスピアの作品のように「福島の二大悲劇」として教えてくれた。19世紀後半の戊辰戦争に翻弄されて起きてしまった、会津の青年武士達のむなしい集団自害。その数十年後に起きた磐梯山の噴火では、ひとつの村が丸ごと湖に巻き込まれてしまった。会津地方の近代の夜明けは、人災にも天災にも見舞われた悲惨な時代
だった。だから、会津と会津を抱える福島には、これを乗り越えてきたたくましい忍耐力があるのだと、じいちゃんは自慢気によく語っていたものだ。これらの悲劇は、老人の解釈も手助けして、忍耐力という精神論に美しい昇華を遂げていた。そして、この話を聞くたびに、そんな忍耐強い福島の遺伝子が自分にも流れていることを誇らしく僕は思っていた。
果たして現在、会津藩士や磐梯山の噴火と聞いて心化から悲しむ人は一体何人いるのだろう。逆に、東日本大震災の記憶や悲しさも、じいちゃんの二大悲劇のように、百年後には薄まっていくのかもしれない。そう思うと寂しい気持ちや震災を忘れていはいけないという責任感を与えてくれるが、同時に福島が震災前のように「福の島」として捉えて歩き出せることにもつながると思う。時間の経過とは実に興味深いものだと、僕の脳の中は妙に落ち着いた感じがした。
「Beautiful beach!」
SNSに通知が入った。アメリカで福島の魅力について布教したうちの一人の友人から、新たなコメントが届いていた。この海が福島の海で、そして処理水が放出されている事実も報道を通してきっと知っているだろう。しかし、彼は純粋に美しい風景としてこの海の魅力についてまた認識してくれたようだ。無論、僕は海を越えた友情に嬉しくなった。もし来日してくれば、いわきへ連れて行って常磐ものも食べさせてあげたいくらいだ。
いわきの海と自分や我が家との特別な結びつきに対して、胸を張って生きていきたい。茨城に暮らしているけど、自分の先祖たちが代々あの海と共に暮らしてきたように、僕はあの海を心に抱きながら生きていきたい。
あの柔らかい海に浸かった時の安心感は、いつまでも全身に残っているのだから。
そう思うと、ぐうっとお腹がなって、早くもメヒカリのからあげが恋しくなっていた。