岩手・宮城・福島MIRAI文学賞・映像賞

岩手・宮城・福島MIRAI文学賞・映像賞2023
3県のミライを綴る「文学賞」
受賞ノミネート作品

その記憶の先に
錦鏡花

 額から流れる汗で視界が滲む。蝉の啼き声が耳奥で響く。どうせなら耳を塞いで欲しい。響く蝉の啼き声が余計に暑さを感じさせる。
 あと少しで次の営業先に行かなければいけない時間だ。公園のベンチで、コンビニで買ったおにぎりを食べきる。今日は午前中で授業が終わる学校が無いようで、公園はガランとしている。まあ、だからここを選んで昼食を取ったのだが。
どこでも売っているおにぎりだ。美味しいけれど、ただそれだけの、冷えた状態のただの握った米。
 明太子。どこにでも、どこのコンビニでも売っているおにぎり。
 本当は、もっと粒の大きい、少しねばっとした赤いあの具が食べたい。いくらでも良いのだが、そっちじゃないあれ。
 そろそろ腰を上げなければ本当にまずい時間になってしまう。新卒で入社して早くも四年目だ。社会人になるタイミングで家を出て、それなりに暮らせるぐらいにはなってきた。でも、ただそれだけだ。
 大学は文系学部に進学したから、何となくの流れで営業方面に進んだ。だから、別に成績が良いわけでは無い。かと言って悪いわけでも無い。クレームが入ったことは無いけれど、何か特別、求められたことも無い。
 生きるのに困ってはいない。常に、ぬるま湯に浸かっている感覚。フワフワと、常に、漂っている感覚。
 今日はこの後の営業が済めば大きな仕事は終わりだ。一度会社に戻り資料を作成して、報告をしたら家に帰れる。家に帰ったらスーツを脱ぎ捨てて、面倒だけれどコンタクトを外す。適当にシャワーだけ済ませて、そのまま布団に入り込む。沈む。沈んでゆく。あと少しで、今日を生きなくて済む。
 一本先の道へ出れば車の行き来が激しくなる。蝉の啼き声は消えた。都会の喧騒。
 額から汗が流れる。睫毛に止まり、一度目を瞑った。
 いつから、いつからこうなってしまった。
 瞼の裏で、炎が揺れる。全てを知らない町の記憶が、そこにある。

「よーし。じゃあ、お疲れ様という事で」
 乾杯、と室内が明るい声色で溢れかえる。特別な仕事が終わったとか、仕事の区切りがついたとか、別にそういう訳では無いのだが、同期の一人が打上げを企画した。どうやら新卒の社員に対しての労いらしい。五年目ぐらいまでの若手の社員だけが参加しており、新卒の人たちも表情が明るい。
 企画をした同期は、同期の中ではぶっちぎりトップの成績で、先輩たちにも食いついている優秀な奴だ。結果を出しているからこそ、この五年目までの社員だけでの打上げ、なんて企画が通ったのだろう。今日は会社の金で飲み食いだ。
 いや、こういう事を認めてくれる良い会社だと考えるべきだろうか。
 まあ、どちらでも良い。今日の夜ご飯に迷わなくて良い事実があるだけで、もう十分だ。
「お前、何食べるん」
 隣に座っていた一つ上の先輩がメニューを見せてくる。「お前」だなんて雑な呼び方。この先輩は俺に興味が無いのだろう。たまたま隣に後輩が居るから、仕方がなく声をかけているだけだ。
 というかそもそも、ここに自分が居る意味はなんだ。新卒社員に対しての労いとは言うが、その先にはまあ、多少は年が近い人たちと仲良くなって仕事のアドバイスを貰って、と言った所だろう。自分はこれと言って後輩たちの為になる存在ではない。先輩から興味を持たれない自分は、後輩からも興味を持たれない。
 頭の中で思考が絡まる中、とあるメニューが目に入る。
 本日限定。店長のきまぐれ筋子おにぎり。
「これ……ですね」
 先日、公園のベンチで丁度思い浮かべていた、アレ。
「筋子? 知らんな……。うまいんか?」
「え、えぇ。その、それなりには」
「じゃあ俺も頼も」
 店員が注文を取りに来る。筋子のおにぎりを注文したが、どうやらもう売り切れらしい。そんな些細な事に静かに腹を立てる。立てた所で意味は無いと分かっているけれど。
「筋子って、北海道とかそっちの方で良く売られとるやつですよね」
 正面に座っていた女性社員が口を開いた。
「あ、うん」
「私も気になっとったんです。なくて残念ですね」
「うん。美味しいから、少し寂しい」
「てことは、食べたことあるんですか?」
 思ったより会話が続く。こんな他愛もない会話で良いのだろうか。自分には何も無い。少し離れてはいるが、別の社員に話しかけた方が、きっと彼女にとって有意義な時間になるはずだ。
 どうやって話を切り上げるべきか。返答を曖昧にしていると、隣に座っていた先輩が口を挟んできた。
「そういや、お前ってこっちの出身じゃないんやっけ?」
「ああ、そうなんですよ。一応、出身は宮城になるんですかね」
「へえ。こっちにはいつからおるん?」
「あーえっと。小四の時……ですね」
「あ、じゃあこっちの方が長いんや」
「そうなんです。けどたまに、思い出すというか」
 揺らぐ炎。吐く息が白いのに、暖かい、あの場。
 隣のテーブルがざわついた。企画した同期が中心になって、話を披露している。
「お、なんだなんだ」
 先程まで会話をしていた二人の興味がそちらに向く。自分達の飲んでいたグラスを片手に席を移動する。
 まあ、そうだよな。
 何も持っていないのだ。何か特別、出来ることもないのだ。何も、何もない。あんなにも、同年代の人達は、何かを持っているというのに。
 早く沈みたい。早く、今日が終わればいい。

 自分にとっての地元は何処になるのだろうかと、ふと思う時がある。父親の仕事の都合で引越しをしてから、ずっと住んでいる所は西の地だ。二十六年間生きて、九年間は宮城県に住んでいた。九年間しか住んでいない。たった九年の間だけで友人となった人たちは、自分の知らないところで辛い思いをした。小学生だったのだから、携帯電話なんて持っていない。友人と気軽に取れる連絡手段が無い。西の地に越して三年。中学一年生の時に見た、テレビに映る映像でしか、知らない。
 きっと、自分にとって、あそこは地元と言って良い場所では無い。言う資格は、ない。
 そうだと言うのに、思い出すのはいつもあの土地だ。輝いていた、あの記憶。生きていた、あの頃。
 小学校と家は極めて近かった。三つ上の兄と川沿いの道を歩く。よくフェンスに黄色と黒の縞模様の蜘蛛が張り付いていて、情けなくも兄はびびっていた。まっすぐ進めば橋があって、それを渡れば直ぐに学校がある。歩いて五分と言った所が妥当だろう。それぐらいの距離だ。
 ずっと兄と登校をしていた記憶はあるのに、何を話していたかなんて記憶は無い。兄が突然走り出して、追いかけて、無様にもコケてぎゃあぎゃあと泣いた記憶はある。
 学校からの帰りは、流石に兄と一緒では無かった。帰る時間がそれぞれ違うため、クラスの友人たちと帰路に着く。けれど、学校と家は極めて近い。たかが五分のちょっとした帰り道で、ぎゃあぎゃあと騒ぐ。走ってしまったら一瞬で着いてしまうから、その時間を噛みしめるように歩く。
 行きは兄がびびってしまうからしないけれど、帰りは居ないから、道端で拾った木の棒で蜘蛛の糸をつつく。あいつらは割としぶといから、直ぐに別の場所に巣を作る。
 もう少し一緒に居ようと思えば、まだ一緒に居られるのに、決まって自分は近道を使っていた。集団下校の日もその道を使い、別の場所で待っていた母親を困らせたこともある。
 家に帰れば母親が待っていて、そこでランドセルを置く。宿題は、と聞かれてもあとでやるとしか返さない。そして、そのまま家を出る。
 今となっては記憶が曖昧だ。けれど、通学路より少し車の通りの多い道を歩いて、三分ぐらいという記憶はある。それぐらいの近さの場所にある公園で、とりあえず兄の友人たちと遊んでいた。兄は一度家に帰ることなく、直接その公園に足を運ぶ。年上の人達と適当に騒いで、水飲み場の水を飲んで「この公園の水は美味しい」だとか、「この公園は空気が良い」だとか、訳も分からず口走る。
 夏休みはいつもこの公園でラジオ体操を行っていた記憶もある。その後、直ぐに帰らず少し走り回って、そして帰宅をする。
 何もないところであそこまではしゃげるものなのだろうか。何もない所でも生きていた、あの時は。何もない自分が当たり前で、それで良かったあの頃は。

「今日、少し良い顔してるじゃないか」
 外回りの仕事が終わり、会社に戻って報告書を提出する時にそう言われた。特別、何か良い事が起こったわけでは無いのに少しだけ身体が軽いのは事実だ。久しぶりに、夜ご飯の事をしっかりと考えている。
ああ、でも今日の昼は。
「はは、公園の水でも、飲んだからですかね」

 コロッケを食べたい、と思ったのだが理想のコロッケが無い。ジャガイモのコロッケではなく、コーンの沢山入ったコロッケ。カニクリームだとか、コーンクリームだとか、探せば色々なコロッケがあるのは知っている。しかし、衣の中がクリームでなく、コーンでたっぷりと満たされているアレを、そこらへんのスーパーで見かけたことは無い。
 今日もお昼はコンビニで適当に済ませ、営業先へ足を運ぶ。今日は新規では無いため少し楽だ。まあ、こんな事で楽だと思ってしまう自分は、今の仕事をきっと誇りに思っていない。
 どうして今、自分はこの営業をしなければいけないのか。これをする事で、社会に大きく貢献が出来るのだろうか。
 その全てが分からない。四年も学生では無い身で過ごしているというのに、何も見つからない。仕事をする理由に、他人への想いを見つけることが出来ない。ただ、自分が生きるためだけに働いている。自分勝手な想いしかないのに、この先もこのままで居られるのかどうか。
 そもそも、どうして自分は生きて行かなければいけないのか。
 誰かの役に立っているわけでは無い。誰かにとって、自分が居なくてはいけない存在というわけでも無い。
 ただ存在しているだけの、ぬるま湯に浸かっているだけの、人の形をした何か。
「──ッ」
 目の前で、車が勢いよく通った。ぼうっとしており、赤信号だというのに足を踏み出していた。後数センチ、自分の歩幅が大きければきっと今日の営業先へ足を運ぶことは出来なかったであろう。
 信号待ちをしていた人たちの、ざわつき。ツウ、と額から汗が流れる。ジワリとうなじから浮かんだ汗は、外見だけは気にかけるためにアイロンがけしたシャツを濡らす。
 頬の内側を奥歯で噛む。ここで口を開いてしまえば、何かを、堰き止められない気がした。
 今日はこれ以上、外に居てはいけない。早く、あの沈んでいくだけの、あの場に居なければいけない。
 辛うじて体調が悪いと伝え、自分の部屋へと雪崩れ込む。
 連絡したとはいえ、初めて仕事で大きなミスをした気分だ。嘘を付いて、勝手に仕事を切り上げる。
 生きる理由が仕事に無くとも、生きていた。今まで何も大きなことをしてこなかったから、それが可能であった。
 どうしたら、どうしたら良いのであるか。
 自分は、何処へ行けば良いのか。
 揺れる、母の背中。自転車の荷台から見る景色。下ろしてくれる、その先にあるもの──。

 河村商店のコロッケが美味しい、と言い始めたのはいつであったか。気付いた頃には、それが自分の中でのご褒美になった。
 母親の買い物に付き合う時、今日はコーンコロッケを食べようか、とその一言があるだけで夕飯が楽しみで仕方がなくなる。買ってから直ぐに食べるわけではないため、出来たてではない。それなのに美味しくて、何なら冷えた方が、コーンが美味しいなんてよく言っていた。きっとこの食べ方はあっていなかったのだろうが、自分の中ではそれが正しかったのだ。
 揺れる。揺れる。自転車の荷台に付いたチャイルドシートに乗せられ、今日の帰ってからの楽しみを待つ。そう言えば自転車の荷台から落ちて、額を縫った事もあったっけか。それでも、恐怖を感じなかった母の背中と今日の晩御飯。帰る場所への希望。
 もう記憶は曖昧だが、もう一つ、帰ることが嬉しくなる買い物があったはずだ。荷台からの景色は断片的にしか残っていない。ただ、広い倉庫のようなところで果物や野菜を売っている場所があった。そこで、母親は何かあった時に、洋ナシというとびきりの御褒美を買ってくれるのだ。何のタイミングで洋ナシを買いに行っていたかは分からない。もしかしたら、ただ単に野菜を買いに行き、たまたま洋ナシが安く売っている時だけ、買っていたのかもしれない。ラフランスって言うんだよ、と教えられ、この世の全ての洋ナシがラフランスだと思っていた。ラフランスが洋ナシの一種だと気が付いたのは、割と後の方で高校生の時だったのかもしれない。
 滑らかで、普通の梨より何倍も好きであった。こんなに美味しいものはあるのか、と幼いながらに感動をしていた。好きな食べ物は、ラフランスと、コーンコロッケ、それと、良く分からないけどきゅうり。
 好きな物が全てあの地にある。宮城県の、その中でも自分が育った岩沼市。仙台市に比べればもちろん田舎で、幼いながらにも何もないと思っていた町。けれど、この先絶対に消えないであろう記憶が、あそこにはある。

 岩沼市にはひとつ、そこそこ有名な神社がある。竹駒神社と言って、日本三稲荷などとも言われているらしい。正直、神社の記憶は曖昧だ。どこに何があって、というのは何も見ずには思い出せない。けれど、鯉のいる池があって、何でかは分からないけどその鯉をよく見ていた気がする。鯉の餌が販売していたはずだ。それを母親に強請っていた。
 あの日もそうであったかは覚えていない。炎が揺らめく、あの日。
 どんと祭と言う、正月飾り等を燃やす行事があった。ただでさえ真冬で寒い日に、飾りを燃やすためだけに夜、外へ出る。何かを燃やすという背徳的な行為を、小学生ながらに味わっていた。家にあった物が燃えている。炎から遠ざかってしまえば、灯が無くなって直ぐに人の顔なんて分からなくなる。澄んだ空気に、柔い温もりが存在する。吐く息が白い。それなのに、真っ白じゃない。
 炎が揺らぐ。少し暑くなってきたからと、離れれば影冴ゆる。息を吸い込むだけで、喉奥がキンと冷える。囲む人々の隙間から、火影が零れる。白い息によって、赫赫かくかくとしたその零れる炎が薄らぐ。
 吐く息が白い。喉がキンと凍るが、その白さが自分は呼吸をしているのだと思わせてくれる。真っ暗なのに、あそこには紅霞がある。夕暮れ時が、存在している。その非現実的な光景に、揺れる炎に吸い寄せられそうになるけど、生きているから、呼吸が出来ているから、あそこに身は投げない。
 再び寒くなって来たから炎の方へ足を進める。自分の背が小さいのを良い事に、大人たちの肘の下を潜り抜け、最前列へと流れ着く。
 燃える。揺らぐ。無くなる。消える。
 この景色を見るのは、今日が最後なのかもしれない。引っ越しが決まり、知らない土地へ行かなければならなくなった。別にこの土地でも友達は少ないが、だからこそ、自分はこの先どうなるのかが分からない。
揺らぐ、揺らぐ──。
「──ねぇ」
 聞こえるはずないのに、炎の向かい側から声がした。
 白肌が夕暮れに染まる。染まりきっていない白色に、黒髪が映える。白色のワンピースを着て、真冬の夜に、ボウッと立っている。
 緩く頬を上げ、目が細まる。
 ──会えたね。
 長い髪を耳にかける。桜色の爪が覗き、その後、掌がこちらに向いて、揺れる。
 一度閉じ切った瞳がゆっくりと開いてゆく。伏せられた睫毛の隙間から、纁そび色いろを閉じ込めた瞳が徐々に覗く。ずっと炎の近くに居たのだろう。もう一度パチリと瞬きをし、こめかみを伝った汗が目元で輝いた。
 正月に飾られていた縁起の良い物が燃える。ザワザワと大人達の世間話が、右耳から入って、一瞬にして左耳を通り外へ流れる。
 吐く気が白い。炎に溶け込み、彼女の呼吸が聞こえる。
「嬉しいよ」
 手を振り返した時、もう彼女は居なかった。澄んだ冷たい、青い空気に、月冴ゆる。
「──っは」
 暑い、暑い。ぐっしょりと濡れた、重い前髪をかき上げる。切るのを忘れがちな伸びた爪が、額を引掻く。汗で視界が滲む。
 空気が重い。窓の鍵に手をかけ、窓を開ける。真夜中の、夏の空気が入り込む。
 夏だけれども、まだ落ち着いた空気。緩く、温く、揺らぐ空気。
 身体が少し軽い。ぐう、とお腹が鳴り脳内に浮かんだのはおにぎりと、コロッケと、洋ナシの三つであった。
 生きるのが、少し、辛い。このまま、どうやって生きて行けば良いのか、分からないから。けれども消えてしまうのは怖い。それを、もう今日と言っていいか分からないが、お昼時に痛感した。
 どうしたら良いのか分からない。けれど、身体が、少し軽い。
 全てが、あそこにある。揺らぐ炎が、誘っている。
 美しい過去が詰まっている。きっとそれが、全て、自分のこの先に繋がっている。
 ──ああ、まずは、コーンコロッケでも食べに行こうか。
 纁色が誘っている。今日は、穏やかな夜が広がっている。