岩手・宮城・福島MIRAI文学賞・映像賞

岩手・宮城・福島MIRAI文学賞・映像賞2023
3県のミライを綴る「文学賞」
受賞作品

日本のグリムを追って
ファラ崎士元

 遠野のカッパは赤い。それはそれは目が覚めるような、鮮やかな夕日の色をしているのだという。
「カッパってキュウリだけじゃなくて、ナスも好きなんですか」
  伝承園の売店で、民俗学についての書籍を立ち読みするミキ。その姿を店番の女性は、ほほえみながら見つめている。
「ええ、がんばって見つけてみてくださいね。お嬢さん、ひとりで来たんですか?」
「はい。大学のレポートを書きたくて」
  ミキは首から下げた『カッパ捕獲許可証』を手にしてにっこり笑う。仙台を経由してバスと電車を乗り継ぎ、ミキは東京からここ遠野まで来たのだった。
 パソコンゲーム部の夏合宿を断って、ミキはこの夏の長期休暇を、遠野への旅行に費やすことに決めた。出版の勉強をするため大学に入ったミキだったが、そこで知った柳田國男、そして佐々木喜善の功績を知り......編纂の大先輩である、彼らの足跡を追おうと思ったのだ。
「まあ、たくさん買っていかれるのね。民俗学をされてるの?」
「専門はそうじゃないんですが......夏のレポートの課題が、出版編集の歴史についてなので。柳田國男の出版って、民俗学ってジャンルを広めた凄いものじゃないですか。それで、遠野物語をテーマに決めたんです。柳田國男がやったみたいに、語り部さんからお話を聞いて、こうやって現地で取材して......絶対にゼミで一番のレポートを書くんです!」
 ミキは売店のレジに書籍を積んだ。東京の図書館では欲しい資料を、何冊も見つけることは難しい。インターネットでの通販だってそうだ。手にしてみるまで必要かどうか見きわめられない古書を、片っぱしから注文するようなことはとてもとても......今夏の路銀だって、焼き肉屋のアルバイトで必死に貯めたものなのだ。この伝承園での書籍爆買いは、ミキにとっては一種の大冒険である。
 トートバッグに本をつめて、ミキは売店を出た。そして遠野物語が編纂された当時の、寒村の様子が再現された園内を見わたす。北国の夏の、きらきらした太陽が、手入れされた庭木の深緑を照らしている。青空の下の、ふっくらとした茅ぶきの古民家は、小さいころに読んだ昔話の絵本を思い出させる。ずっと東京に住んでいるミキにとって、それらは懐かしさよりも、おとぎ話の世界にいるような高揚を感じさせるものだった。野鳥のさえずり、それから水車の回る涼やかな水音を聞きながら、柳田國男の降り立った遠野の景色もこんなふうだったのかな、とミキは思った。
(当時の姿の井戸がある。この桶? つるべ、っていうんだっけ。これを引いて生活していんたのね。こっちは......雪隠? なんだっけ。ああ、トイレか! ここは......曲り家?)
 タイムスリップしてきたような気持ちで、ミキは園内を歩いてまわる。曲り家に入ってみると、石造りのかまどがある台所が見つかった。博物館のレプリカではないそれからは、当時の生活の息づかいが直に感じられる。踏みかためられた土間も、ミキにとっては初めて見る、新鮮なものだった。どきどきしながらミキは屋内を散策していく。
(これは......糸車だ! 昔話で見たことがある。これで絹をつむいでいたのね。昔の人は器 用だったんだなあ)
 そのうちにミキのスマートフォンからアラームの音が鳴った。もうそんな時間か、とミキ は見学を切り上げて集合場所へ急ぐ。

「あんらマ、めごい女学生さんですね」
  やがてミキが案内されたのは曲り家の、いろりを囲む一部屋だった。座布団に座っているのはミキのほか、旅行客の老夫婦、そして伝承園の語り部の、着物の似合うおばあちゃんだった。語り部のおばあちゃんは目を細めてミキを見る。ミキは首をかしげる。
「......? えっと、東京から来ました! いろりを囲んで、こんなかわいい古民家でお話を聞けるなんて、感動してます」
「ええ、こん家はネ、二百五十年前のもんでして、重要文化財になっどります」
「そうなんですね......! なんだか光栄です、そんな家に上がらせてもらえるなんて」
 伝承園では脈々と受け継がれてきた民話を、語り部から間近で聞くことができる。ただ、ミキは民話そのものにはまだ明るくない。だから、うまく理解できるかはわからないけど......こういった口伝されてきた話を記し、本にした柳田國男の追体験をしたいと思って参加したのだ。
「じゃア、みなさん許可証をお持ちということでネ、カッパの話からしていぎますんネ」 (柳田國男も、下宿しに来た佐々木喜善から、こんなふうに昔話を聞いていたんだ)
 ミキは鉛筆とメモ帳を手に、大先輩の姿を思い起こしながら、正座で耳をかたむけた。

 語り部のおばあちゃんの話は、子守歌のように聞きやすかった。方言に一切なじみのないミキにとっては理解の難しい部分もやはりあった。だが、聞きなれない言葉はすぐに意味を教えてくれるし、何よりこんこんとした言葉のリズムが心地よくて、ミキはいつの間にかメモを取ることなく、おばあちゃんの話に聞き入っていた。
「......さて。どんなでしたか、女学生さん」
「えっと、......どうしよう、すごく良かったんですけど、どう良かったのか、うまく言葉にできなくて、ごめんなさい、その......カッパから風土や人間らしさが感じられました、とか ......」
「それでええんです。難しく考えることありませんヨ。そうやって、気持ちよく聞いでもらうんが語り部の話です」
 ミキは少し照れくさくなって、目を泳がす。いっしょに聞いていた老夫婦も、ミキのことをほほえましいように見ている。このふたりはそもそも民俗学や、その雰囲気が好きなのだ ろう。昔話の楽しみ方を、よく知っているようである。
「そ、そうなんですね......実は私、柳田國男の真似をしたくて聞いてみたんですけどね」
「そらま、えらいですねエ。そんなら売店の横に、佐々木喜善の記念館がありますンで、見てってくださいねェ」
「はい、もちろんそのつもりです! 今日はありがとうございました!」
「こごではほかに工芸もでぎっし、女学生さんなら将来の夢もありますでしョ。そんなら、オシラサマに願掛けしてみんのも良いですネ」
「オシラサマ、さっきのお話にも出てきた神様ですよね。はい、やってみます!」
「けっぱってネェ」
「......?」

 記念館でもメモを片手に、ミキは真剣な眼ざしで資料を見つめていた。佐々木喜善は多くの民話を知っていたが、それらはノンブルが振られた一冊の本を丸暗記したような物語ではない。知っている話を、思いだしながら口頭で伝えていったものなのだ。
 柳田國男は草稿に何度も言葉をつぎ足し、修正し、時に空白をつくって後から取材し、また書き足し、そうして遠野物語を少しずつ、誰の目にも見える形に彫りだしていった。 (編集者として柳田國男のことに興味があったけど、佐々木喜善もその後、自分でも民話を集めて出版したのね)
 米寿まで各地を飛びまわり、活躍し続けた柳田國男とは対照的に、地域に根付きながらも早世してしまった佐々木喜善。自らの生まれた土地の物語をよく知り、編纂した功績から、金田一京助により『日本のグリム』と称されたのだという...... (佐々木喜善は私と同じ歳のときには、小説家を志して下宿していたんだ。そうして柳田國男に出会って、遠野物語にかかわったときには二十二歳......私には想像がつかないなあ)
 澄んだ風が吹く屋外に出て、ミキはふたたび曲り家の方へ歩く。先ほどおばあちゃんから 昔話を聞いたあの古民家の、少し奥にオシラ堂があると聞いた。柳田國男の資料で見た、木でできた体に何重もの着物を巻いた小さな神様、それがオシラサマだという。養蚕の神様とのことだけど、関係ない自分がお参りするなんて、なんだか図々しくないかな、と思いながらミキはオシラ堂にそっと立ち入った。
「えぇ、すごいなあ......」
  そうして目に飛びこんできた、一面にずらりとたたずむオシラサマ。おのおのが鮮やかな着物に、その小さくも年季の入った木目の体を包んでいる。みんな、その身に願いを託され、祀られていたのだと思うと、ミキは厳かで尊い気分になっていく。
「学生さん、オシラサマにお願いをしてみませんか」
 天井までぎっしり並んだオシラサマをぼんやり眺めているミキに、園の職員が声をかけてくれたが......ミキは考え込む。
「でも私、東北生まれでもないただの学生で......オシラサマと関係のあるお願いなんてないですよ」
「オシラサマは家庭の守り神で、女性にご利益のある神様でもあります。難しく考えなくても、身近で見守ってくれるような存在なんですよ。ほら、いろんな方が、いろんなお願いをしています」
  職員の見る方には、文字の書かれた真新しい布に包まったオシラサマがいる。
『家内安全』
『早稲田合格』
『夏休み中に彼女ができますように!』
......
「本当だ。たくさんの人が来てるんですね」
「ええ。学生さんも、ぜひどうぞ」
 そうしてミキはサインペンと、赤い布を一枚受け取った。願いはひとつ。それを迷いなく書いていく。
『素敵な本をいっぱい出したい!』
「あら、文芸をされてるんですか?」
「いえ、出版にかかわりたくて。柳田國男を尊敬してるんです。遠野物語の発刊のこともですし......戦後の大変だった時代を、出版の力で明るくしようとした晩年の志にも、特に感銘を受けてるんです! でも......」
 ミキは願いを書いた赤い布をじっと見つめ、少しだけ肩を落とす。
「私、そそっかしいし、落ちつきがないし、さっきのお話もうまくメモをとれなかったし... ...編集って、たくさんの情報を落ちついて処理していく技術が必要なんです。なりたい、だけじゃなれないですよね」
「大変なんですね。けれども学生さん、とても熱心そうだから、オシラサマもきっと応援してくれますよ。そういえばこっちでは、がんばれ、というのを方言で、けっぱれ、って言うんです。オシラサマが励ましてくれるとしたら、そんな声が聞こえてくるでしょうね」
「あ! そうなんですか! そっか......あ、ありがとうございます!」
 大きくのびのびとした文字で書かれた、一番新しい布を来たオシラサマを抱いて、手前の方の列に加える。
「よく見てみると、ひとりひとり顔が違うんですね。私のお願いを聞いてくれてるオシラサマは、なんだか丸っこい顔で優しそうです」
「馬の顔をしているオシラサマもいますね。みんなそれぞれのお家を守ってきたんですよ」
「ここに並ぶみんなに歴史があるんですね」
「そう......歴史、ですね。二〇一一年の大津波でたくさんの文化財が失われた際、数多くのオシラサマも行方がわからなくなってしまいました。ここで出会えるオシラサマは、さらに 昭和、明治の大津波も乗り越え、私たちのそばにいらっしゃってくれるんです」
「小さいころにあった地震よりも前に、そんなこともあったんですか......」
 それでも、この土地は大切な文化も、涼やかな美しい風土も、必ず思いだしている。そう やって前を向く人々の姿を、オシラサマはずっとそばで見守ってくださっていたんだ。
 作法などはわからないなりに、ミキは手を合わせる。そうしていると、自分の願いが叶うことへの期待より、小さな体でおのおのの家を守ってきたオシラサマへの......ねぎらい、というと不遜かもしれないが、敬いのような気持ちが大きくなっていく。
 戦後の混乱の中、日本が真の意味で豊かになる手がかりを、柳田國男は伝承の中に探していた。ミキは過去の大先輩が、どういった心持でその答えにたどりついたのか興味深く思っていた。そして、うまく理解できかねていた。
 文化が? 伝承が? どうやって荒れた日本を救えると思ったんだろう? ......もちろん本当の心情は、柳田國男本人にしかわからない。それでもミキは今日、自分がオシラサマと出会って感じたものが、どこかで尊敬する大先輩に重ねられる気がしていた。
 ......オシラ堂から外に出ると、水車が散らす清らかな水しぶきが、傾きかけた夕日のオレンジ色を映して輝いていた。
 佐々木喜善は自身の曾祖母が、真っ赤な顔のカッパと出会ったという話を語っている。
(そういえばカッパ......もし会えるとしたら、こんなきれいな水辺にいるんだろうなあ)
 ミキは首から下げていたカッパ捕獲許可証を、書籍を詰めこんで少し重たいトートバッグの中に片づけた。たおやかな、北国の緑にみがかれた風がかおる。もしかすると今、カッパと同じ風に吹かれているのかもなあ、なんて思いつつ、ミキは伝承園をあとにした。

(遠野駅から、徒歩九分......なんだか、かわいい駅だなあ。カッパのモチーフがたくさんある!)
 翌日、素泊まりの民宿から出て、ミキは遠野駅まで足を運んだ。地図アプリを見ながら、でも景色も眺めながら、......本人が気にしている通りそそっかしい様子で、博物館を目指して歩いていく。
 時刻は昼前だった。本当はもう少し早く宿を出るつもりでいたのだが、書籍を読んだり、体験したことを書き留めたりしているうちに、ついつい夜更かししてしまい、思うように早起きできなかったのだ。だから......
(おなかすいた......! 博物館に行ってから休憩するつもりだったのに!)
 昨日、素泊まりの宿での夕食は、どこかの駅近くで買った海苔弁当ですませていた。取材にお金を惜しみなく使うため、それ以外の予算を切り詰めた貧乏旅行だ。朝食の用意はしていなかった。そもそもミキは、普段は朝食を抜くことが多い。しかし夜遅くまで頭をつかっていたせいか、今は空腹がやたら気になって仕方ない。
(コンビニないかな......それか、お弁当屋さんでも......)
 ミキは周囲の店を見る。どうも居酒屋の多い通りらしい。特に馬刺しを看板メニューにしている店が多いように思う。しかし、やはり居酒屋となると、今は準備中の店ばかりだ。もう、自販機の甘いジュースでも飲んで気を紛らわせようと思ったところで、一軒の店のドアが半開きになっていることに気づく。 (あ、営業中だ......で、でもこういう店って、ランチタイムでもいいお値段がするんじゃないかな。大丈夫かな......)
  ミキは怖気づきながら、そっと店の前に立つメニューボードを読んだ。
『本日のランチ 六百八十円』
(えっ、普通だ! むしろ安い!)
 ドアの隙間からミキはそろりと店内をのぞく。どうやらカフェのようである。......奥の棚の上では茶トラ猫がごろごろしている。ミキはその、古いカフェの扉を開けた。

 こぢんまりとした店内の壁には、新旧さまざまな遠野のイベントに関するチラシが貼られている。ミキはお冷を飲みながら、奥の棚で揺れる茶トラ猫のしっぽを眺めていた。
「ご注文はお決まりですか?」
「んーっと、本日のランチってなんですか?」
「今日は馬刺し定食です」
「じゃあそれでお願いします」
 ランチから馬刺し? 変わってるなあ、なんて思いながらミキは待つ。店内に吊るされた 黒板には、カキフライ定食やナシゴレンのような、馴染みのある献立のほか『ひっつみ定食』 『どぶろくソフト ※アルコールがふくまれます』といった、東京では見かけないメニューも書かれていた。
「お待たせしました」
そのうちに目の前へ定食が運ばれてくる。
「あれ?」
 ミキはその馬刺しを見て、目をぱちぱちさせた。ミキは焼き肉屋でアルバイトをしている。
そこでも桜ユッケなどを提供しているので、生の馬肉はいつも見ている。
「どうされましたか」
 店主の女性が少し不安そうにミキを見る。
「いえ、馬肉ってもっと白っぽくて、霜がいっぱいあるのしか知らなくて」
 炊き立てのごはんの湯気ごしに見える、盛りつけられたその肉はしっかりとした濃い赤色で、脂もほとんどなく、むしろマグロに似ているようにミキは思った。知っている馬肉と 全然違うのだ。
「あら、お客さんは西の方から来たんですか?」
「うーん、東京なんですけど......私がバイトしてる焼き肉屋さんの馬肉とは、なんだか違うお肉みたいな感じがします」
「ああ、そういうことですね。それなら、馬の種類が違うからですよ」
「馬って種類だけでこんなに肉の見た目が違うんですか、知らなかったです、ありがとうございます。じゃあ、いただきます!」
 ミキはさっそく馬刺しに箸をつける。味付けはわさび醤油だった。そのわさびも、普段使う練りわさびとは少し違い、細かな繊維がよく見える。手作業でその場ですったものかもしれない。
  一口食べて、ミキは驚いた。脂っこさはまったくないのにやわらかく、瑞々しく、新鮮で力強い、肉のうまみが濃く感じられる。さらに生肉のいやな臭いなんて一切なくて、辛すぎない、むしろよく育った根菜のほのかな甘みさえある、わさびの爽やかな香りが肉と醤油のコクを引き立てていた。
 噛みしめるたびに、雑味のない、自然だけども深い味わいがした。飲みこむと体にすっと溶け込んでいくような、さっぱりとした満足感もあった。東北のお米も、お味噌汁も、全部 がおいしくて、ひとよりも食べることに興味がない性質のミキも、夢中になって完食した。
「......すっごくおいしかったです。このお店に入ってよかったです。変な言い方だけど、なんだか健康になりそうな味っていうか、......それも違うなあ、なんだろ、でも、とってもおいしいんです!」
 茶トラ猫を抱いて床へ下ろしていた店主に、感動したミキは思わず感想を伝える。うまく言葉にはできなかったが、店主は聞いて、深くうなずいてくれた。
「それはよかったです。わさびは大丈夫でしたか?」
「はい、わさび、そんなに好きじゃないんですけど、でもこのわさびは別でした!」
「遠野のきれいな水で育ったわさびを、この店で都度すっているんです。気に入ってもらえてうれしいですよ」
「馬刺しもこんなにおいしいなんて......」
「東北でよく肥育されているのは、このあっさりした赤みの多い品種なんです。会津の馬刺しなんて有名ですから、東京でも食べられる場所はたくさんありますよ」
「会津の馬刺しですね、探してみます! この辺り、居酒屋さんにも馬刺しの看板がよく出ていますけど、そこのメニューもみんな会津の馬刺しなんですか?」
「いえ、遠野にも食用の馬の牧場はあるんですよ」
「そうなんですか! 私、柳田國男の取材をしに来て、昨日は遠野物語についてもよく調べてて......だから、馬って当時の暮らしにかかわってはいても、あんまり食べるイメージはなかったんです。でも、お肉も食べられているんですね!」
「ええ。それと今でも、馬と人の距離が近い土地柄ですので、ほかには乗馬のための馬を調教する牧場もありますね」
「すごいなあ、知らないことが本当にたくさんある......いろいろ教えてくださってありがとうございます!」
「いえいえ、こちらこそご来店ありがとうございます。そうだ、柳田國男の研究をしているんですよね」
「はい、昨日は伝承園に行ってきました」
「ああ、いいところですよね。ヤマメの炭火焼は食べられましたか?」
「え、そんなこともできるんですか! ヤマメなんて私、どうぶつの森でしか見たことがありませんよ。きれいな渓流でしか生きられない魚だから......」
「それだけきれいな水があるんです。次に機会があったら、ぜひ食べてみてください」
「そっか......取材のことにしか興味なかったから、惜しいことしちゃったかもです」
「本当に熱心に勉強されてるんですね。よかったら、研究の成果なんかがあがれば、教えてくれると嬉しいです」
「はい、遠野は絶対また来ようって思ってるので......そのときにはまたお邪魔します!」
「よろしくお願いしますね」
「にゃあ」
  あくびする茶トラ猫の声を聞いてから、ミキは店を出た。すっかり日は高くなっている。
じっくり見たいのに、時間が足りるかな。速足でミキは博物館へと向かった。

 大きなシアターやジオラマで、遠野物語の世界へつれて行ってくれる博物館。平綴じの、古い資料を触れさせてくれる図書館。時間が許すかぎり、ミキは目をかがやかせながら取材を続けた。今夏の旅行はミキにとって、かけがえのない、とても充実した経験になった、なったのだが......
「いらっしゃいませ、何名様でしょうか」
「ひとりです。あの、実は私、去年も東京から来た学生なんですけど......」
「......ああ、もしかして! あのとき馬刺し定食を頼んでくださった、取材旅行の学生さんですか! 今年も来てくださったんですね」
「はい、覚えていてくれてたんですか......! 猫ちゃんも元気そうで嬉しいです」
「にゃーん」
 茶トラ猫は相変わらず、ミキたちがいてもいなくても同じようにごろごろくつろいでいる。店主の様子も、店内の雰囲気もほとんど変わっていない。ミキはたった一年ぶりの来訪ながら、懐かしい気持ちになりつつ去年と同じ席に座った。
「今回はひっつみ定食をお願いします! あとお酒も飲めるようになったから、食後にどぶろくソフトもください!」
「はい、かしこまりました。お待ちくださいね」
  そして待っている間に、茶トラ猫はミキの足元にすり寄ってきた。ミキはその子の頭をなでる。ひと懐っこくて、幸せそうな猫ちゃんだ。こんないいところで飼われてこの子はいいなあ、とか思いながら過ごしていると、やがて料理が運ばれてくる。
 栄養満点のたっぷりの野菜たちが、深い味わいの出汁で煮込まれたひっつみも、ミキは感動しながら食べた。岩手の水で育った作物はなんでもおいしい。伝承園のヤマメも今回は抜かりなく予約しているミキは、そちらの方もより楽しみになってくる。ミキの今回の訪問も取材旅行である。しかし、風土を楽しめるだけ楽しむつもりでもある。空気、景色、食、環 境。民俗学を理解するなら、ただ文献を読むだけではなく、その土地を五感で感じるべきだと思ったのだ。
 去年と変わらず、目を輝かせながら完食したミキ。その空いた皿を下げてから、店主は酒粕の香りがするアイスを持ってくる。それを一口食べたミキは、強いアルコールに顔をしかめるが......この香りは、ミキのお父さんがよくおいしいと言って飲んでいるにごり酒の香りと同じものだ。今は理解できなくても、きっといつかおいしく感じられる時がくる......そんな風に思える刺激的な味だった。
 一気にほおばるとくらくらしそうなので、少しずつアイスを口へ運ぶミキに、店主が話しかけてくる。
「そうそう。あれから学生さんがどうされてたか、ずっと気になっていたんです。研究の結果はいかがでしたか?」
「それが......」
  ミキは表情を曇らせる。その反応が意外だったのか、店主が心配そうにのぞきこむ。
「ゼミの教授からは怒られたんです。これは編集に関するレポートじゃない、ほとんどが紀行文だって。功績とか、後世への影響についても言及してたんですけど、それでもこれでは 伝記であって、編集の研究じゃないって......。だって、書きたいこと、みんなに伝えたいことがいっぱいありすぎたんです」
「そうだったんですか......気を落とさないでほしいです」
「でもでも! 私、そのゼミに今はいなくって......ていうか、大学、編入したんです!」
  ふたたびミキの表情が明るくなる。ええっ、と店主は声をあげる。
「すごく熱心でいらしたのに......他にやりたいことができたんですか?」
「いえ、実は私が怒られてるとき、研究室にたまたま客員として、文芸評論の先生がいらっしゃってたんです。その先生が私のレポートを見て、すっごい褒めてくださって......それで、今はその先生の奨めもあって、本格的に民俗学の方向に進むことに決めたんです!」
「......それは、いい巡り合わせがあったんですね!」
「はい! 編集者になりたいっていうのも、もちろん大切な夢だったんですけど......去年 ここ遠野に来たとき、自分の本当の夢に気づいたんです。私、受け継がれてきた物語を通じて、みんなの心を豊かにしていきたいんだって! 柳田國男みたいにはなれなかったけど、 文化と伝承の中に未来を明るくする手がかりがあるってことは、柳田國男から教えてもらったんです」
「よかったですねえ、本当に......」
「この出会いはもしかしたら、去年のオシラサマが導いてくれたのかもしれないです。私、これからたくさんの伝承を勉強して、それについての考察や、これからの時代に通ずるヒントみたいなのを、いっぱい書き記していけたらいいなと思って......これはきっと、佐々木喜善が長く生きてたら、もっとやりたかったことなんじゃないかなとも思ってます」
「そう! とっても素敵な夢ですね、ぜひがんばってください!」
「ありがとうございます! オシラサマもけっぱれ、って見守ってくれてるので!」
 今日の天気はあまり良くない。だんだんと、夏でも冷たい北国の雨が、屋根を打つ音は大きくなっていく。ミキはそれも嬉しかった。どんな土地も、行楽日和の晴れの日ばかりじゃない。当時の生活を想像するリソースがまた増えた。次は絶対、冬に来よう。春にも、秋にも訪れなきゃ。
  天気予報をしっかり見ていたミキは、店から出て傘をさす。雨のにおいもどこか澄んでいて、それはとても心地よかった。
  ミキは遠野駅の通りを、文化の道を、歩いていく。
(こんな気持ちのいい雨は、カッパたちも嬉しいだろうな。でも捕獲許可証、まだ今年分に更新していないや。今年はナスも用意してあげたのに。まいっか。楽しみにしていてね、カッパくん)
 そんなことを思いながら、ミキは伝承を追った大先輩の、さらに背中を追う冒険へと旅立った。