岩手・宮城・福島MIRAI文学賞・映像賞

岩手・宮城・福島MIRAI文学賞・映像賞2023
3県のミライを綴る「文学賞」受賞作品

かえるところ
梅若とろろ

 人のまばらな東北本線下りは、駅を過ぎるにつれ耳慣れない訛りが聞こえ始めた。車窓を流れる田園風景と、既読のつかない画面をいったりきたり、俺は見知らぬ土地へ行く不安が募っていた。
 バイト先で知り合った暁生という先輩は、いつも唐突だった。野菜や肉をスーパーの袋いっぱいにして俺のアパートへ押しかけたり、八時間勤務の後にカラオケへ連行したり、例によって今回も、実家へ遊びに来るようにと連絡をよこした。十五時に迎えに行くとだけ連絡があったきり、何度連絡しても返事がない。無視をすることはできたはずだが、長いこと世話になっているのもあり断れなかった。いつもこちらのことは考えずにものを言ったり、やって来たり、それでも最後はうんざりしたことも忘れて二人で楽しくなっている。断ることのできないまま布団を無理やり剝がして、着の身着のままスウェットのまま、スマホと財布を抱えて鏡も見ずに家を飛び出した。あんたはこんな姿の男を呼び出したんだ、と見せつけるために深夜に近所のコンビニに行くような格好で昼の駅へ向かう。先輩へのせめてもの反抗だった。しかし、列車に乗ってから寝ぐせはついていないか、この髭は許される長さか、服は臭くないか、そもそも俺はいつ風呂に入ったのか、思考をぐるぐるさせながら目立たぬようにボックス席の窓際に小さくなって、時が過ぎるのを待った。
 なんのゆかりもない町の、それもどうして先輩の実家へ行かなくてはならないのか分からなかった。もう帰りたい。だけども、もう引き返せない。重い足取りで、降車する人々に続き須賀川駅に降り立った。
 想像と変わらない普通の駅だった。この先思った通りの景色の中を、先輩の車で運ばれていくのだと思うと憂鬱だった。けれども現実は唐突に、そして尽く俺を裏切った。思いがけない邂逅だった。どうして駅のロータリーにあれがあるのか。懐かしく、憧れだった人物がいた。何度彼になりきっては勇気付けられたことか、大人になればなれると思っていた。昔抱いた情熱が徐々に蘇る。ずっと昔から変わらない俺のヒーロー。拳を突き上げて天を仰ぐ姿は正真正銘のウルトラマンだった。
 まさかという疑いと、絶対にそうだという確信が足を早めた。やはりどこから見てもウルトラマンだった。しかし同時に昔の嫌な記憶が呼び起こされた。奥深くに封じた記憶。幼い記憶。静やかであった川底はかき乱され、清冷な川中はたちどころに濁ってしまった。思い出すまいと、深く呼吸をして、目の前の現実を噛み締めようと注視した。
 暫く感嘆混じりにじっくりと眺めた。何枚も写真を撮ってはまたうっとりした。惚れ惚れする体躯が石巌から飛び出す姿は、ウルトラマンの力強さを体現していた。
「来てよかっただろう」
 振り返ると、先輩がにやつきながら立っている。先輩への不満を忘れて大きく頷いた。

 

 言いたいことは沢山あったはずだけれども、なぜあそこにウルトラマンの像があるのか先に問わずにはいられなかった。
「ここは、円谷英二の故郷なんだ。お前、特撮が好きだって言っていただろう。それで一度は連れて来たくてね」
 言ったことなどとうに忘れていた。特撮どころかウルトラマンへの情熱すら忘れて、専門学校の課題に追われ、好きでもないものに必死になっていた。先輩がこの地へ呼んだのも俺を慮ってのことなのだろう。それにしてもあまりに急すぎます先輩、と言いかけたが飲み込んだ。
 数時間前とは打って変わり、雲が行くのに似た時間の流れ方がこの町に漂っていた。徐々に車の速度が上がると、夏の心地良い風が車内を吹き抜ける。窓の向こう、遠くには入道雲の頭が見え、橋を渡りかけると全貌が現れた。山脈を遥かに凌駕する姿は、まるでゴジラのようだった。空を眺める両の目にはもうゴジラ以外の何物にも映らない。座席に触れる背中が脈打つのが分かった。
 俺よ、自分でも分かっているさ、だから口を挟まないでくれ。この懐かしくも激情した感覚に浸らせてくれ。この町に来て、予想外の再会をしてからというもの、静かに湧いて出るこの興奮に気付かないようにしていたが、限界だった。見るもの全てが、憧れの彼らとなって現れる。子どもの時もそうだ。家の窓を見上げれば、いつでも好きなウルトラヒーローが怪獣と戦った。今でも俺にははっきりと見える。
 ゴジラが襲ってくるぞ、町が危ない。悲鳴を上げてみんな、逃げ回っている。わあ!眩しい、あの閃光は⁉ あれはストリウム光線だ! ウルトラマンタロウが助けに来たぞ! さあ、やっつけろ!
 荒いブレーキとともに妄想は止んだ、はずだった。幻想は一部を現実に残し、俺を困惑させた。
「俺はもうダメかもしれません。ウルトラマンタロウが、タロウが目の前にいます」
 先輩は笑って、俺にも見えているから安心しろ、と車を下りさせ、俺とタロウを並べて、写真を撮る。横には腕をTの字に組んだウルトラマンタロウがいた。タロウの足に触ると熱さに手をひっこめた。夢でも幻想でもない現実だった。呆気にとられた俺を置いて、先輩は向こうを指差す。
「反対側にはエース、もう少し先には母がいるからどんどん行くぞ」
 反対側の歩道にはウルトラマンエースがメタリウム光線の発射ポーズを構え、遠くにも赤と銀のモニュメントが見える。タロウとの再会の余韻に浸ることなく、車に乗り込んだ。
「タロウもエースも母も…… こんなに沢山、凄いですね」
 この町に来て少ししか経っていないのに、こんなにいるなんて思ってもみなかった。先輩が俺を来させたかったのも納得がいく。俺はもう十分楽しめた気でいた。
「まだまだ序口だからな。あと思っている五倍はまだこの町にいるから待っとけ」
 驚きと嬉しさの混じった、言葉にならない声が出た。

 

 松明通りにはウルトラヒーローだけではなく、怪獣たちもおり、合わせて十三体いた。いくら何でも多すぎる。モニュメントを一通り見ると、通りから一本入ったところにある落ち着いた雰囲気の喫茶店へ入った。先輩はマスターと顔馴染みらしく、二人でカウンターに座ると先輩オススメの水出しコーヒーを頼む。時間をかけて抽出するようで出来上がりが待ち遠しい。
 けれども、先に出されたお冷が先に喉を駆け抜けた。家を出てから何も口にしていないものだから、ひときわ美味い。
 カウンター越しに談笑する二人に混ざり、撮った写真を見せながら駅であったウルトラマンとの再会を話した。
「それにしても、この町のウルトラヒーローと怪獣の多さには驚きました。こんなに身近な人の故郷が円谷監督の出身地だなんて、先輩に誘われなかったら一生知らないまま、来ないままでした」興奮気味にマスターに説明した。
「目の前でこんなに喜ばれると、ここの人間としては照れるねえ」マスターがにこやかに言った。先輩は肘でこづいてくる。
「わざわざ来てくれるとやっぱり嬉しいものだよ。そこのパンフレットをあげるから、たくさん連れて行ってもらいなさい」
 優しいマスターだ。先輩は後で表のショップに寄らせてもらいます、と言っていた。フィギュアもグッズもTシャツもあり、ここでしか手に入らないものもあるらしい。サインもあるようで身体がうずうずしてきた。
「へえ、ショップもやられているのですか。よっぽどのファンですね。なんだか同じ匂いがしますよ」
 そう言っている間、先輩は身体を丸くして腹を抱えて震えていた。コーヒーをグラスに注ぐマスターの顔も困ったような、笑っているような。変な感覚だった。突然先輩が堰を切って笑い出す。
「本当にお前最高だよ」
 こんなに笑って、何がおかしいのか分からなかった。
「マスターは英二監督の従甥。ただのファンじゃない。やっぱり連れてきて正解だった。想像通り、いや期待以上」
 恥ずかしさよりも、ただの店主だと思っていた人物が英二監督の親戚だったことへの衝撃が勝った。信じられない。目の前に円谷監督と血の通った人間がいるなんて。
「あー、笑った笑った」と、今しがた出されたアイスコーヒーを先輩は優雅に飲む。コーヒーと角のとれた氷は、それはそれは輝いて見えた。俺は大事に大事に口に含んで飲み込んだ。こんなに美味しい飲み物は、生まれてさっきぶりだった。
 久々にこんなに美味しいコーヒー飲みました、と言うとマスターがこちらを向いて微笑んだ。
「分かるかい。嬉しいねえ」
「絶対に分かっていませんよ、こいつ。きっとマスターが監督の血縁だと知ったからそんなことを言うんです」
 先輩にはお見通しだった。

 

 喫茶店を出ると、新しそうな施設に連れられた。先輩はまた驚かそうと特段の説明をせず連れてきたつもりだろうけれども、俺は一階の案内板をちらと見ていた。もはや驚嘆しまいと心積もりしてエレベーターに乗り込んだが、最上階に着くと足取りが早くなった。円谷英二、憧れたちの生みの親であり、俺にしてみればヒーローの一人でもあった。その円谷監督のミュージアムが設けられていた。
 見て回るのにどれだけ時間を費やしたかわからない。ただ先輩は文句一つ言うことなく傍にいて、子どもが夢中になっているのを見守るように俺を見ていたのを知っている。
 円谷英二ミュージアムの階下には図書館があり、大きな室内遊び場もあった。夏休み中ということもあり、学生や親子で賑わっていた。
「高校時代、この町に住んでいたら毎日図書館で勉強して、たまに休憩しにミュージアムに寄って、そしたらもっと頭も良くなっただろうに」
「そうか? お前、ここへ来たら勉強なんか手につかないだろうよ」
 その時は先輩が𠮟って引き留めてくださいよ。そう言いたかったが笑って誤魔化した。
 一階へ降りるとバルタン星人、レッドキング、キングジョーがいた。もう驚きはしない。ただ、あの頃の懐かしさが精巧な物体として、目の前に存在する事実にひたすら感服していた。
 レッドキングだよ見てごらん、と父親と手を繋いでこちらへ来た女の子が突然泣き出した。父親が怖くない怖くない、となだめるが、女の子は泣き止まない。戸惑う父親に先輩が声を掛ける。
「お兄さん、しゃがんでみてください。きっとこの子の身長だと大人でも怖く見えますよ」
 しゃがんだ父親が見上げると、おおおとバランスを崩して尻餅をつく。女の子はダンゴ虫みたい、と笑った。さすが先輩は教職を目指しているだけある。
 ほんの些細な出来事だったが、こういうことが幸せなのだろうと思った。泣き出す子どもを心配する父親。父親の愛情を一心に受けていた子どもが、正直羨ましく、また妬ましくもあった。ここへ連れてくれる親がいることも俺には当たり前でなかった。徐々に鬱々とする心を鎮めようと、呼吸を深くした。いや、今の俺だって幸せ者だろうよ。先輩がこうして誘ってくれたのだもの。
 東の空は、暗々とし始めていた。先輩の実家へ行くと夕飯の支度途中で、リビングには先輩の親父さんが晩酌の準備を始めていた。既に何品もの食事がテーブルに並び、これ以上何を用意するというのか、それほど豪華であった。先輩がお袋さんに呼ばれると、リビングには親父さんと二人きりになった。
「先に二人で飲んでいようか」
 親父さんの向かいに座り、お言葉に甘えて日本酒を酌してもらうと、重い一升瓶をぎこちなく傾け返した。誰かにお酌をするのも、先輩の実家へ来るのも、親父さんと会うのも初めてだった。
 視線が右往左往したりお猪口を撫でまわしたり、落ち着かなかった。
「話によく出てくる創くんと漸く会えて私も嬉しいなあ。今日はどんなことをしてきたんだい。聞かせておくれ」
 腰を屈めて小さな子どもに尋ねるような優しい口調だった。校長先生が目の前にいるかのようなそんな心持ちがした。
「は、はい。驚きの連続で」駅で起きたウルトラマンとの邂逅、喫茶店で先輩に大笑いされたこと、さっき見てきたミュージアムの感想をそのままに話した。その間、親父さんは終始、柔和な面持ちで聞いていた。不思議な心地だった。父親というのは、このように息子と話すのだろうか。もし、親父さんが俺の親父なら……
 玄関から声がすると、先輩とお袋さんがラップで何重にも覆われた大皿を大事に運んで戻ってきた。二つの皿には、にんにくのよく香る野菜炒めと、皿の絵が見えないほど敷き詰められた焼鳥があった。大皿の間を埋めるように小皿が置かれ、調味料が置かれ、グラスが置かれ、テーブルの上には沢山の料理で埋め尽くされた。先輩の祖父母も揃うと、更におかずは増え、あれもこれもと勧められた。俺は腹よりも先に胸がはちきれそうだった。
 こんなにも歓迎してくれる先輩やその家族の好意が嬉しかった。けれどもその裏腹、幸せそうな家族のあり様を見ていると、やるせなかった。華やかで賑やかな食卓を囲む先輩の家族は、俺の味わえなかった家族の姿だった。
「遠慮しちゃだめよ、たくさんあるからお腹いっぱい食べてね」お袋さんが微笑む。
「ほら、暁生に全部食われるぞ。創くん、好きなものは先に取っておいた方がいい」親父さんが笑って言う。
 胸が苦しくなってくる。腹が空いているはずなのに、箸は握ったままだった。申し訳なくなり親父さんの空いたグラスにビールを注いだ。
「創くんは映画に興味があるんだってね。どんな作品を撮っているんだい」
 この言葉に滞りなく話せる人間であったならばどれほど良かったか。俺の手元には作品のひとつもなかった。一本の映像も、アイディアも、撮りたいものもなかった。映画を撮りたくて入った学校もかき集めた資金を消耗するだけで、当初あったはず夢も忘れ、心から作りたかった映像を撮ることもなく、借金を返すためのバイトに費やす時間が増えていった。もう、俺には何もないのだ。
 俯くと視界がぼやけ皆々の声が遠のいた。視線が鋭くつむじを刺すようで、釘打ちされたかのように動けなかった。ていよく何か言えば良いのに、早いこと答えなければと焦れば焦るほど何も言えなかった。
 突如、脇に座る先輩が押し黙る俺の肩を抱いた。
「親父、創が困っているじゃないか。今日は長いこと連れ回したから疲れたんだろう。もう奥へ行かせようと思う」
 椅子から身を起こされると、俺は先輩の肩に腕を回したまま二階の客間に運ばれた。襖から電灯の引き紐までの暗い部屋を進む寸刻、窓が開いているのか、夏の温かな微風が闇に漂っていた。明かりを点けようと、暗闇に手を宙にする先輩の腕を静止させ、俺はその場にへたり込んだ。すみませんと小さな声で呟くと、ごめんと暗闇から返事がした。襖から外の明かりが入り、先輩が出て行くのが分かった。布団に丸まると先輩たち家族への申し訳なさと悪い記憶に煩悶して、嗚咽が止まらなかった。泣き疲れて寝入ると、いつしか幼い時の夢を見ていた。

 

 空腹に起こされて目が覚める。厚いカーテンで閉ざされ、ゴミの散乱する部屋が唯一の世界だった。誰もいない部屋。誰もいない家。空腹でだるい身体を起こし、衣類を踏み分け、ゴミ袋を搔き分け寝室を出る。食卓には七味や醬油さしの背丈に紛れて、化粧品が乱雑に並ぶ。椅子に上って冷蔵庫を開ける。数本の缶ビールと空になったケチャップ、ソース、マヨネーズ、乾涸びた野菜、イチゴジャム。食べられそうなものは、昨日探し尽くしたはずなのにまた探していた。手のひらよりも大きなジャムの瓶蓋はびくともしない。またダメかと冷蔵庫へ戻す。食べ物を諦めて、ビデオデッキにテープを入れて画面に見入った。
 あの時見ていたウルトラシリーズは何だっただろう。隣の家のお兄ちゃんのお下がりで、不揃いのビデオテープが何本かあるだけだった。話の次第も分からない、幼いこともあって内容を理解しているわけでもない。そうであっても何度も何度も戦う場面を巻き戻しては、力が湧いて、戦う真似をしては部屋を駆けまわった。この間だけは空腹も寂しさも、うやむやにできた。全てをウルトラマンが埋めてくれたのだった。
 こう過ごしては空が暗くなるのを待った。そうすれば母親が直に帰ってくると思った。でもまだ外階段に母の気配はない。夕暮れ時のタンタンタンとトントントンが一緒に鳴るのは隣のおばさんとお兄ちゃん。暗い時間に聞こえる遅い足取りのダンダンダンはそのお父さん。ただいま、と壁から声が漏れる。今となっては、よその幸せに聞き耳を立てていたことへ恥ずかしさを感じるが、当時はこの音を聞くと泣きたい気持ちになった。お母さんはまだ仕事で忙しいのだから、いい子にして早く寝ようと布団に入る。けれども、いくら時計の長い針が進もうと寝付けない。再び台所へ行く。椅子を動かして緩い蛇口をひねり、覗き上げるようにして水を飲む。お腹を満たしてまた布団の中に縮こまる。
 もうすぐ寝入りそうになる頃、遠くで音がする。消したはずのテレビから何かが鳴っている。ああ、この曲は「ウルトラセブン」だ。この頃はまだセブンのビデオテープは持っていなかったような気がしたけれども、もういいのだ。ここは夢の中なのだから。夢と分かっていながら、あの頃の寂しさや切なさがこみ上げて、涙が溢れ出る。拭った涙が美味しくて、やるせなかった。
 ふとして、意識が戻ったのが分かった。起きたはずなのにまだ曲が鳴っている。どこからか本当に「ウルトラセブン」の歌が聞こえる。夢から覚めずにいるかのようだった。恐る恐る目を開けると、昨晩の暗い部屋は朝の光で充たされていた。ベランダへ出る掃き出し窓は網戸が引かれており、音は外からするようだった。考える間に音は止んでいた。昨日の気まずさよりも、今のが何であったか突き止めたい思いが階下へ行く勇気を与えた。
 リビングにそっと顔を出すと、台所のお袋さんが活発な笑顔でおはようと言う。先に食事をとる祖父母もこちらに気が付き、おはようと声を掛ける。食卓には人数分のベーコンエッグや小鉢があった。先輩や親父さんの声が廊下からして、リビングへ入ってくると二人ともおはようと口にする。昨日のことなどなかったかのような素振りだった
 昨晩と同じ席に着くと、お袋さんが食べてみて欲しいものがあるの、と冷蔵庫から出した瓶詰を開け、俺に手渡す。スプーンで掬うと、イチゴの一粒一粒が形を留めたジャムで、噛むごとに潰れていく大きな果肉が美味しかった。地元のイチゴを使ったお袋さんの手作りらしく、トーストにジャムをつけて夢中で食べた。お袋さんに良かったわ、と見つめられると照れ臭かった。六人で囲む食卓は学食とも違い、もちろん一人の時とも違かった。食事の美味しさとはまた別の喜びがあった。
 あのことを思い出して、その場に投げかけるように言った。
「さっき外から聞こえたあれは何ですか」
 新聞に目を落としていた先輩が反応した。
「ああ、防災無線だよ。毎朝七時に流れるんだ。そうか、聞けたのか。よかった」
 お袋さんが俺に近づきこっそりと耳打ちする。
「本当はね、聞かせてあげたいからって、起こしに行こうかさっき相談してきたの」と可愛らしく笑う。先輩の方を見ると目が合った。
「まだまだ行くところがあるんだ。早く食けえ!」
 こうやって強く言う時、大体先輩は恥ずかしがっている。俺に対して言葉や態度は素っ気なくてつっけんどんだけれども、どこか愛を感じる。さっきだって先輩の家族がいなければ、気付かなかった優しさがあった。これまでにも、俺の知りえなかった先輩の厚意はあったのだろうか。

 

 先輩の車に暫く揺られると、田畑や果樹の緑の風景が広がっていった。この果樹が何の実をつけるか知らぬまま、東京へ帰るのだと思うと惜しくなり、まだ自分がこの地に居たいのだと僅かに自覚した。
 福島空港の入口近くにはウルトラマンオーブが仁王立ちをして待ち構えていたり、空港の自動ドアにはウルトラヒーローがデザインされていたり、町の中心から離れたところでもウルトラマンは波及していた。空港内にはウルトラマンギンガSSのUPGの隊員服が展示されていたり、二階にはウルトラマンギンガストリウムがメカゴモラと対決するジオラマがあったりした。ジオラマを背にして待合のベンチが囲んであり、腰掛けているおじさんが背後のウルトラマンや怪獣には興味のなさそうにして、おにぎりを食べているものだから、何だかおかしかった。
 ショップには商品台の上にウルトラマンとバルタン星人が立っており、ウルトラマン関係の大量のグッズやお菓子が陳列していた。何十体ものソフトビニール人形の前で、子どもが父親にねだっていた。
「おまえも何か欲しいのか」隣から先輩が口出しをする。
「いいですよ。欲しけりゃ自分で買えますから」
 今朝はお袋さんを通して先輩の今まで気が付かなかった情を垣間見た気がして、どきりとしたが、またいつものおちょくる先輩に戻ったようだった。
 空港内のレストランで昼食を取り、車へ戻った。駐車したままの車内、二人は午睡を誘う昼の空気に包まれた。フロントガラスの景色が徐々に朧になっていった。先輩もまどろんでいるのならば、今が好機だと思った。昨晩のことを謝りたかった。
「昨日の晩、すみませんでした。失礼な態度で、先輩もご家族の皆さんも気を悪くさせてしまうようなことをして」
 やはり眠ってしまったのか、すぐに返事はなかった。横を向けば起きているか確認できたはずだが、見る勇気はなかった。聞こえていなければそれで良かった。いや……と
小さく声がした。
「こっちこそ父親があれこれ聞いてきて嫌だったろう。俺たちは本当にお前が疲れていたのだと思っているから、何も気に病むことはない」
 そんなはずはない。どうしたってあの晩の俺は様子がおかしかった。いつもなら正直にものを言うのに、こういう時は分かりきった噓で俺をかばおうとする。それにつけても、先輩が以前から何かと懇意にする心意、その優しさを暴きたくなった。
 エアコンの風がコーっと鳴る車内は、穏やかな午後の中にあった。
「どうしてここまでするんですか。先輩はとっくにバイトを辞めて、俺とはもう何の関わりもないはずじゃないですか」
 一呼吸置いて、先輩が静かに言い出す。
「前に学習支援のボランティアをやっていてな、それこそ、貧しかったり、ひとり親の子どもだったり、そんな子どもたちに勉強を教えていたんだ。その子どもたちの一部には大変な家庭環境で育っている子もいて、そういうのを見たり、聞いたりしているのに根本を解決させてやれない自分が情けなかった。お前のところもひとり親だったと聞いているし、今だって色々苦労しているのを知っているから、つい世話を焼きたくなってしまうんだ。それにかわいいんだ。弟みたいで、お前が」それと、と付け加える。
「最近バイトに行っていないだろう。店長から連絡があった。きっと家に引きこもっていると思って今回呼び出したんだ。あんなに必死に働いていた奴が理由もなく急に休み始めたら誰だって心配するし、聞いた時は俺も心配した」
 店長が先輩に連絡するほど大事になっていたことを申し訳なく思った。バイト先だけでなく、辞めた先輩にも迷惑をかけていた。そして、先輩には連絡があるまで引きこもっていたことを見抜かれていた。けれども核心に触れずにこうして連れ出してくれたのだった
「何かあったの」
 子どもに尋ねるようだった。青空を破るようにして浮かんだ、鮮明な雲の輪郭が目に痛かった。答えなければならないと思うにつれて、徐々に身体が重くなり、また昨日の晩のように喉が締め付けられるようだった。沈黙が続き、いくつもの積雲を見送った。先輩は俺が口を開くまで待っていた。
「この間、バイト帰りに偶然見たんです。親父が…… 親父がいたんです。小さい子どもと手を繋いで歩いていた」今までの鬱憤や悲傷が噴石のごとく湧き出る感覚がした。泣きながら叫ぶように声が出た。
「俺とお袋を置いて出ていったくせに、俺とお袋に辛い思いをさせたくせに、新しい家庭を作って、幸せそうにしていたんです」
 しゃくり上げながら、腿を何度も殴った。拳も足も痛いのに、止めれば暴れそうな手足をこうして制すしかなかった。急に強い力で右腕を掴まれ、抱き締められた。
「ごめん、ごめんな。もう言うな。何も言うな」
 先輩の胸に顔を押しつけて泣いた。先輩は気が済むまでこうするのを許した。
 落ち着くと、あの頃のことを話した。幼少期父親が家を出て行き、母親も帰らない日が続いたこと。十分な食事を与えられずにいたこと。その時ウルトラマンが唯一の支えだったこと。小中高、父親が偶に帰ってくると母親に暴力をして金を奪っていったこと。先輩にこのことを話すのは初めてだった。
「お袋さんとは順調なのか」
 首を振って答えた。母親は僅かな食費や学費、最低限の経済支援をするだけだったが、そのおかげで社会との繋がりを絶たずにここまで生きてこられた。高校を卒業してアパートを借りた時に会ったのを最後に、二年近く顔を合わせていなかった。そうだったのか、と先輩は再び優しく抱き締める。俺は全てを吐き出してとうに気が晴れており、男二人が空港の駐車場で何をやっているんですか、とツッコミたかったが抱擁を温かく受け入れた。

 

 車を出して、市街地へ戻る道中、先輩との距離がより近くなった気がした。映画の話になり、その流れで先輩の親父さんの話になった。
「実はな、昔それこそ英二監督に憧れて父親も映画の道を目指していたんだ。結局叶わなかったがな。息子は全く違う道に進んだわけだし。だからお前が映画の学校行っていると父親に話した時、いつか連れて来なさいと言っていたんだ。お前のことを応援したいんだよ。俺だってお前に夢を叶えて欲しいと思っているんだ」
 辻褄が合致した。あの晩の親父さんは俺と話がしたかったんだ。それなのに俺は拒んでしまった。もう一度親父さんと話がしたい。それに、先輩にも親父さんにも伝えたいことがあった。
「親父さんに作品のことを聞かれた時、心からやりたくて撮った作品もなかったし、撮りたいものもなかったけど、見つけました。この町に来て。先輩は俺がウルトラマンしか見ていなかったと思っているでしょうが、町の景色や暮らす人々が息づく、町そのものも見ていたつもりです。俺は町のこの空気を映像として形にしたい。この町を撮ってみたいんです」
 先輩は運転中にもかかわらず勢い良くこちらを見て、赤信号を止まり損ねそうになる。
「本当か⁉ この町を⁉ 嬉しいなあ。夕飯時に報告会をしよう。親父どころか皆、喜ぶだろうよ」
 大した反応はないと思っていたものだから、目の前で分かりやすく喜ばれると照れ臭かった。

 

 車は先輩の実家へ戻らず、どうしてか市役所に着いた。市役所の外にはウルトラの父が立っていた。これを見せたかったのかと思いきや、先輩は突然おかしなことを言い出した。
「住民票をつくろう」
 いやいや、いくら俺がこの町を撮りたいと言ったからと、移住しますとまでは言っていない。まあまあいいから、と言う先輩の言う通りにスマホの操作をし、届いたメールを窓口に持って行き、言われるままに用紙を選んだ。暫くすると、先ほど選んだウルトラマンがプリントされた一枚の紙を受け取った。
「おめでとう。これですかがわ市M7878光の町の住民だ。面白いだろ、この町はこんなこともできるんだ」
 しっかりした紙質の用紙には、俺の名前や新たな住所が印字され、極めつけに、いつのまにかすかがわ市M7878光の町の市長になっていた、ウルトラの父の公印が押されていた。この町に来て散々驚かされてきたけれども、ずば抜けて衝撃的だった。せっかくだから展望台まで階段で行ってみようと提案された。何度も体力の限界を感じたが、喜びと興奮が原動力となり、もう何でも嬉しくなっていた。登っても登ってもたどり着かない階段の先には、この町の見渡す限りの景色が広がっていた。遠くの空では日が赤々と光を放ち始めていた。
「もう遊びに来いとはいわないさ。だからまた帰ってこい。撮影でなくとも帰ってこい。皆待っているから」
 再構築することも、新たに築くことも不可能だと思っていた温かい家庭というものに、先輩たちは俺を招き入れてくれた。帰る場所があること、快く受け入れてくれる人たちがいることが、こんなにも心を温かくさせ、安らぎを与えるのだと知った。
 車に戻る頃、また朝のように防災無線から曲が聞こえはじめる。耳を澄ますと「帰ってきたウルトラマン」だった。温かく迎える人たちのいるこの町を撮りたい、この意志は揺るがすまいと心に決め、曲の
流れる夕焼けを、先輩と二人家路に就いた。