福島とおいしいもの
「東京ってソースカツ丼ないんだな。」
向かいの席に座り、雑な手書きのメニュー表を反対側から少し読みづらそうに見ていた彼は、驚いた顔をした。
「たまたまここにないだけでしょ。」
東京のはずれ、静かな住宅街にある大学に通う井澤海は、男子大学生で賑わう店内を見渡す彼に向かって言った。学食のほかに飲食店と呼べる飲食店がないせいでいつも行列になる、学生むけの普通の定食屋にたまに来たくなる。脂っこいにおいがする店内、かなりボリュームのある定食のため、女友達への受けはあまりよくない。海は、付き合って一ヶ月の彼とのランチにこの店を希望した。
「ソースカツ丼がないなんて、うちの地元じゃありえないぜ。いわゆるソウルフード?ってやつだから。」
「地元、東北のどこだったっけ。」
祖父母は双方とも東京在住、生まれてから二十一年東京育ちの海は、行ったこともない東北の地理は苦手だった。青森、岩手、それ以外はどこにどの県があるかすらわからない。
「福島の、会津。」
ふうん、聞いたことあるようなないような。相槌を打ちながら、海は早く決めなければと少し焦りながらメニューに視線を走らせる。優柔不断なのは嫌われるらしいと知ってから、すぐに決められない私はメニュー決めの時間が苦手になった。いつもの唐揚げ定食か、酢豚定食か、どっちにしよう。がっつりいきすぎ?野菜炒め定食とかにすべきかな。そもそも、こんな定食屋に誘う時点でかわいくなさすぎだったかも。
もやもやしながら彼の視線を感じて海は顔を上げた。
「今度俺が腕を奮ってやるから、うちにソースカツ丼食いに来いよ。」いつもより早口な彼の言葉は、すぐには海の頭には入ってこなかった。
ソースカツ丼。どうやら彼が作ってくれるらしい。
五分も伸びた講義がようやく終わり、教科書と iPad をまとめてトートバックに突っ込んだ。この講義には、知り合いもほとんどいないので、黙ったまま一人で席を立つ。ワンピースのポケットから自転車の鍵を取り出し、ざわざわと会話をする人の間を縫って講義室の外へ出る。郊外にあるため都内にしては広いキャンパス内。建物の横の駐輪場で自転車にまたがると、建物の裏に伸びる細い道を走る。左右に広がる植え込みには大きなドングリがなるはずの木が緑色の葉っぱを茂らせて道にまだら模様の影を落としている。ピンク色が視界にちらりと入ってきて目をやると、低木の茂みの小さな葉っぱの間にツツジの花がいくつも咲いていた。
白い壁に青い文字の青空ハイツ。彼に聞いていた通り、大学の裏門から出てすぐのところに小さなアパートを見つけた。
階段を登って一番奥の部屋の前に立ち、教わった部屋の番号と同じことを確認する。風でぐちゃぐちゃになった前髪を手で整える――本当は鏡を出すべきなのはわかっているけれど、まあいいか。
海はどくんどくんと胸の奥で騒がしく打つ心臓が落ち着くのを少しだけ待って、古いボタン式のチャイムを押した。
ぴぽん。
「お、おつかれ。」
五秒と待たずに、彼が出てきた。紺色のデニムのエプロンをつけて。
「お腹は空かせてきたかい?」
彼とぱっと目が合ったが、海は思わず目をそらした。
エプロンつけて出てくるなんて反則。こんな人が私の彼氏だなんて、未だに信じられない。ああ、鏡でちゃんとメイクと髪がおかしくなっていないか確認しとけばよかった!
海は心の中で少しだけにやけながら、ぺこぺこだよ、と努めて飾らない風に言った。
IH コンロが一口しかない狭い台所に、二人並んで立つ。彼が、バットいっぱいのパン粉に、卵の滴るトンカツ用豚肉を優しく乗せる。ひっくり返して裏にもつけたら、はじを手で持って、ふつふつという油の入った熱そうな鍋にそっと入れる。
「二つ分作るっていうのも楽しいな。」
彼が何の気なしにいっている言葉のひとつひとつが、海の中をぐるぐると回って溜まっていく。海は黙ってうなずいて、しゅうしゅうふつふつときつね色になっていくとんかつを見つめた。
「二枚目入れるぞー」
白いとんかつが、ほろほろとたっぷりつけられたパン粉を散らし、しゅわあという音を立てて油の中に入っていく。
「めちゃめちゃおいしそう。」
少しずつとんかつらしくなっていくとんかつたち。見つめながら、彼は地元のとんかつ屋の話を懐かしそうに話した。彼が地元や家族との話をしてくれるのは、なんだか、とてもうれしい――昔の彼まで知ることができるようで。
彼が、あ、と言ってあわてて鍋の方を向いた。
「やばいもうこげちゃ色だ。海、菜箸!」
ぎゃあぎゃあと手間取りながらなんとか救い上げた時には、既にとんかつは見事な焦げ茶色だった。
二人は顔を見合わせた。「おいしそうだから、よし。」
さくっ、さくっと彼は包丁でとんかつを均等に切り、ソースやら料理酒やら、色々な調味料を入れて作った特製ソースに丁寧に浸す。さくさくの衣にソースをたっぷり絡ませても、まだ出来立てのとんかつの衣は美しいまま。そしてそれを箸で優しくつまんで、ご飯とたっぷりの千切りキャベツの上にきれいに並べた。残った特製ソースを上からさらにかけると、とんかつとキャベツは黒くつやつやと光った。
「会津流、めちゃおいしそう。」
「会津流っていうよりは、うちのオリジナルかも。」
「え、そうなの。会津流ってどんな感じ?」
海が聞き返すと、彼はちょっと右の口角を上げて笑う。最近気づいた、彼のこのちょっとまがった笑い方。
「会津で食べるソースカツ丼って感じだな。」
それずるい、と言いながら海もつられて笑う。
「夏休み、一緒に会津に食いに行こうぜ。」
「いいね!福島のおすすめの場所、色々行きたいな。」
福島には他に何があるのだろうか。インスタで調べたら何かしら出てくるだろうか。
とりあえず、彼との旅行ならどこへ行っても楽しいことは間違いない。
ソースカツ丼の丼と箸を座卓に置くと、二人は視線を交わしてから手を合わせた。
「いただきます!」
ぱたん。重そうな音を立てて、海の分厚い十年日記が閉じた。普段は外したままの表紙の紐を、なんとなく蝶々むすびにする。
少し胸を震わせながら、ふうと息を吐いた。
スマホを手に取って地図アプリのアイコンをタップする。彼と行こうとピンを立てた会津のソースカツ丼の美味しい店、餅が好きな私が絶対気にいると言ってお土産を買ってきてくれた凍天の本店。凍天は簡単にいえばよもぎ餅の天ぷらだけど、それだけで表現し尽くせるようなものではなかった――ほんのり甘くてふわっともちっとして、私の好きなタイプにどストライク。やっぱり冷凍と本物は違うから本店には行かないと、と言っていた彼の顔を思い出す。インスタにたくさん写真が出てきた、大内宿のネギで食べるという蕎麦屋。ほんとにネギで食べるの、と聞いた私に彼は、海ならネギで食べられるだろうな、とにやっと笑って答えた。
「ずるいやつ。」
一年たってもこんなにひきずらせるなんて。
彼は、今まで私が知らなかったことを、たくさん話してくれた。どれも、私の世界が広がるようなこと。そんな風に私の中に新しいものを残していったから、失ったはずの彼を忘れることができない。
彼を失うことで、新しく得たものだってある。失恋ソングには百倍感動できるようになった。落ち込んでいる私を慰め、たくさん遊んで気を紛らわせてくれる友人の素晴らしさも知った。
それに何よりも、何よりも素敵なことは、あんなに美味しそうなものたちに出会えたこと。たぶん、彼に教えてもらった食べ物は、当分、もしかしたら一生、食べる度にこの失恋――辛くて悲しい気持ちと幸せだった記憶とを蘇らせるに違いない。
もしかしたら、泣かせてくるかもしれない。でも、そんな風に食べ物ひとつで誰かを思い出して泣いちゃうなんて、生きてるって感じもする。
最近私の頭の中に住むようになった、小さな赤毛の女の子が顔を出す。
彼と別れた後、急に増えてしまった時間を何かに使いたくて、幼いころ誕生日にもらった「赤毛のアン」シリーズを読み返した。記憶の中では変な女の子だったアンは、今の私には、深く悲しみ飛び跳ねて喜ぶ人間らしいかわいい女の子だった。
私の頭の中の想像の彼女は、きっと声をかけてくれる。「永遠に、食べ物ひとつで、心にかつて愛した彼の顔、話した言葉、幸せだった時間と辛い気持ち、全てが蘇るのよ――それって最高にロマンティックじゃない?」
きらきらと大きな瞳を輝かせる三つ編みおさげの彼女を思い浮かべ、海は一人でほほ笑んだ。
「会津のソースカツ丼は絶対に食べに行かなくちゃ。」
一人で。もしくは友人と、それか未来の彼氏と。
ソースの染みた美しいとんかつを見て、あの焦げたとんかつがきっと心に思い浮かぶのだ。いただきますと言ったらまず、とんかつを割り箸で口へ運んでさくっとかぶりつく。本場会津のソースカツ丼の、まだ知らないソースの味と一緒にじゅわあと厚い豚肉の旨味が広がる。
凍天も絶対にもう一度食べたい。あの絶妙な食感と優しい甘さでよもぎの香りを包む食べ物、他にないもの。彼にお土産でもらった凍天とほぼ同じ味がして、でもきっと本店で食べるのはもっと美味しいはず。
大内宿のネギ蕎麦も食べたいし、あ、そういえば白河ラーメンも有名なだけあって美味いっていってたな。一年前はラーメンがあまり好きではなかったけれど、私は最近ラーメンにハマっているし。今週末暇だし、これを食べに行っちゃおうかな。
スマホをポケットから取り出し、高速バスの検索サイトを開いた。
宮城とおいしいもの
実習ばかりの一ヶ月があっという間に過ぎ、明日からついにゴールデンウィークが始まる。まるで砂漠の中の小さなオアシスに辿り着いたようなこの気持ちは、忙しい生活を送る人皆で共有できるものだろう。社会人の兄は、大学生には分かりっこないと言いそうだが。
白衣を着た渡瀬海は、バイオハザードマークの付いた微生物学の実習室から、ドアを開けて廊下へ出た。歩きながら白衣を脱ぎ、更衣室の狭いロッカーに押し込む。靴を履き替えると大学の寮に向かって重い足で歩き出した。
明日からゴールデンウィークだとはいえ、奨学金をとっている俺は、ゴールデンウィーク最終日以外は毎日塾のバイトの予定だった。やっぱバイトの予定入れなきゃよかったな。家でだらだら映画でも見たい。
「実習おつかれー。」
後ろから自転車のベルがちりちりちりとせわしなく鳴った。振り返ると、海よりも後に実習を終えた友人が自転車でこちらに向かってくる。
「おう、おつかれ。」
自転車に跨がったままの友人が速度を落として、隣に並ぶ。
「なあ海、ちょっと旅行行かねえか。」
海はにやっと笑った。
「それいいな。」
大学で学んだことの一つ。たいていの誘いには乗っておくこと。最終日以外はバイトだと伝えると、友人は、じゃあその日な、と軽くうなずいて、自転車を軽やかにターンさせて後ろに向けた。
「よし、じゃあ朝四時に寮の前に迎えに参りますぜ。」
「四時!?」
無視してチャリを漕ぎ出した友人は、あ、と振り返った。
「寝坊でもしたら旅行代全部お前持ちな。」
よし、余裕な顔して待っていてやろうじゃないか。
青の絵の具をたっぷりの水をつけた絵筆で溶いて画用紙に広げる。ちゃんと乾く前に、やっぱりちょっと違う、と黄色と赤を付け加えたら、色がちょっとだけ混ざって、滲んだようなマーブル模様ができる。教わった描き方ではないが、とても綺麗なのだ。車のフロントガラスから見える空いた高速道路と広い朝の空は、海にそんな昔の記憶を思い出させた。
こんな時間に出かけるなんていつぶりだろう。寝ぼけまなこで買った鮭のおにぎりの包装をはいで運転をする友人に渡してやり、二つずつ食べる。授業には遅刻の常連である友人は眠たそうなそぶりも見せず、GReeeeN のオレンジにノリノリだ。
朝の東北自動車道は大きなトラックがぽつりぽつりと走っているだけで、すかすかだった。二人は、一度だけ PA で休憩をとって、またひたすら走った。
そういや、どこに行くのか聞いてないぞ。
サプライズ旅行に行くカップルじゃあるまいし。
「なあ、俺らどこに向かってるんだ?」
朝日で明るくなり始めたフロントガラスの向こうを見つめる友人の目が、ぐっと細くなる。
「まかない丼ってやつを食べに行きたいんだ。気仙沼の。」
気仙沼。宮城県の海沿い、という言葉が膿の頭に浮かんだ。
なぜだろうか。今まで、東北には行ったこともなく行きたいと思ったこともなかったはずだが。
「昼はまかない丼、夜は仙台で牛タンな。ホヤと地酒は土産にするだろ。」
友人は食べたいものを次々にあげた。笹かま、フカヒレ、ずんだ餅…。
それにしても、いきなり何でそんな東北の端っこに行きたいんだ?
「どっか遠く行って美味いもんたくさん食いたくなって。」
月曜日から金曜日まで、一限から五限まできっちり必修科目で時間割が埋まっている。馬鹿にできない中間テストもあり、真面目にやらなかったクラスの二割か三割はテストと一緒に単位を落とす。何かに追われている状態が続くのは辛い。
東北は、そんな今の海にとって絶好の場所かもしれなかった。海外にさえ近いような、テレビでしか見ない未知の場所。そんな場所へ行って美味いものを食う、それって最高の休みじゃないか。
「いいな、それ。」
俺は、朝日があたる友人の横顔へ顔を向けた。
「誘ってくれてありがとな。」
「おう。お礼は食レポ聞かせてくれれば十分だぜ。」
は、食レポ?
気仙沼の海沿い、お洒落なつくりの新しい商業施設の駐車場に車を停め、開店時間ぴったりに小さな居酒屋へ向かった。狭い階段を上って出てきた小さな木のにおいのする、広い窓のあるスペース。まるで親戚の家に来たかのようだ。水を持ってきてくれたおばさんに、迷いなく賄い丼を注文する。
しばらくして丼が運ばれてきて、友人はおおお、と声を上げた。
淵に沿って透き通るような鮮やかな赤身のマグロが並び、真ん中にマグロのたたきがもりっとのっている。さらに、木の机いっぱいに、大きな身付きの骨の入ったあら汁とお漬物、つやっとしたカレイの煮付けの中鉢。
慣れ親しんだ、学食のぱさっとした煮魚とは別物だ。――いや、あれはあれで、学食っぽくて、悪いとは言わないけれど。
海は、わさびを溶かした醤油を上からくるっとかけ、つやつやの白いご飯をたっぷり掬い、さらに大きなマグロを捕まえて口を開いた。向かいに座る友人は同じく口をいっぱいにして咀嚼しながら、口の端を不自然にひきつったように上げて海を見つめている。
口が空くと、海は箸を下ろしたまま口を開いた。
「うん、マグロを口に入れて噛むと、厚いマグロがあっという間に溶けてなくなってく。」
隣のテーブルに座る女の人が、ちらと見慣れぬ男子大学生たちを見る。
「カレイの煮付けも柔らかそうで綺麗な器に入って、行ったことはないけど、高級料亭に出てきそうな見た目。食べてみるとこってり味がついているのに優しくて、どんぶりに山盛りいけるね。脇役のはずのあら汁は、美味すぎ!魚の出汁の美味さを今まで俺は知らなかったぜ。すぐ近くの海の香りかあおさの香りか、わかんねえけど、とりあえずなんか海に来たなあって感じがする。」
友人はにんまりと笑いながら手をたたいた。
すると、厨房の方からもぱちぱちと一人分の拍手が聞こえた。
うわ、聞いてたのか。いや、まあ、聞こえるか。
思わぬ観客の拍手には気づかないふりをして、俺は行き場のなくなった口をコップに近づけた。友人のにやけた顔が視界に入る。いがったよおと手拭いを頭に巻いたおばさんが朗らかに海に笑いかけた。海は曖昧に微笑み返すと、箸を持ち直し、たべかけの丼に向かった。
食べ終えた二人は店のおばさんからホヤぼーやのボールペンをもらい店を出た。
そのおばさんいわく、ホヤは日本酒とももちろん合うが、白ワインやビールに合わせるとそれぞれ雰囲気が変わって良いそうだ。車を停めた近くの商業施設の中でとりあえずホヤと地酒、ふかひれスープの素を買った。
店に並ぶ剥きホヤは、鮮やかなオレンジ色でとぅるんとして、いかにも、珍味らしい見た目をしている。わかる人にしか美味しさがわからないやつだ。
「貝割って食うってクールだよな!」
とか言って、友人はでかい貝のままのホヤを買った。
重いクーラーボックスを車に積むと、海が運転を代わった。魚屋のおっちゃんに聞いた気仙沼の観光スポット、気仙沼大島に向かって車を走らせる。きれいな道路で、ぽつぽつと小型の自家用車とすれ違う。カーブを過ぎたところで、前方にこぢんまりとした橋が見えてきた。
橋を越えてしまうと周りは住宅と小さな林で、海のそぶりも見られない細い道が伸びている。静かな小学校の前を通り過ぎ、ナビに従って細い道へ入っていく。左右に並ぶ家には、伸びすぎた植物でいっぱいの庭。まるで、さびれたうちの地元の植物園の中に車ごと迷い込んだようだ。
右前方に建物がなくなって、ぱっと視界が開いた。
助手席から友人が身を乗り出す。「海だ。見えた!」
がらんとした駐車場に車を停めドアを閉めると、友人がすぐに走り出した。キーのボタンを押して車にロックをかけ、友人を追う。海岸を覆うように広がるコンクリートの壁の間の、明るい砂浜につながる階段を駆け下りる。
――海だ。なんて小さな海。
いつか西洋美術館で見た海外の画家の絵画のような海。左右が林に挟まれ、砂浜の奥に伸びる海にひょろっと突き出た波止場が見える。箱にしまっておけるような長方形の場所。
名前がわからない、猛禽類が空を横切っていく。全てがうまい具合に組み合わされた、箱型の芸術作品の中のようだった。
静かな昼間の海の絵に、人が加わった。つめてえ、と叫び声が聞こえる。
海は黒いスニーカーと靴下を脱いで、靴下を靴の中に詰め込んだ。ベージュのパンツの裾をまくり上げる。
砂浜は、走ろうとしても足が沈み込んでうまく走れない。指の間に砂が挟まるのを感じながら海はようやく波打ち際に近づいた。波の中に立つ友人がぱっとしゃがむ。
ぱしゃっ。
きらきら、と細かくなった水が飛んできて、しょっぱい水が顔をつたった。
「やったな!」
波打ち際に沿って逃げ出した友人を追いかけながら、二人でぎゃあぎゃあと叫んだ。流木の枝のチャンバラ、流木の枝の旗取り、相撲、思いつく限り、小さな砂浜を遊びつくした。
太陽は気づかないうちにてっぺんを通り過ぎ、太平洋に向かう小さな海の向こうには、淡いオレンジ色と水色の混ざった空。
久しぶりにこんなに走って、足の裏もふくらはぎも痛い。
そろそろ、腹も減ってきた。
「腹減った。」
「俺も。」
よし、と二人は顔を見合わせる。
甘そうだが食べないと後悔するであろうずんだ餅と、少々お高いが外せない分厚い牛タンと、笹かまと、残りの宮城を食いに行こう。
岩手とおいしいもの
「うみ久しぶりー。今週末岩手遊びに行きたいんだけど、暇?」
インスタのおすすめをスクロールしながらぼおっと眺めていると、幼馴染からの DM がぽこんと出てきた。
突然だなあ。四戸海は、スマホに向かって口元を緩ませる。
「ひさしぶり。おいで!」
私と毎日のように遊んでいた頃の彼女は、こんなに行動力のあるタイプでは なかった。彼女が中学に入るときに関東へ引っ越してしまうまで、けんかする ほどの仲の良い友達だった。親には、二人は似ているからけんかするのよと言われたものだ。
「やった!」
「最後に会ったのは、海がうちの家に来た時だよね。もう四年ぶり?」
「じゃあまた着く時間決まったら連絡する!」
ぽこん、ぽこん、ぽこん。
立て続けにメッセージが表示され、スマホの通知がせわしなく現れては消えた。私は左手で短く文章を打つ。
「りょーかい。詳細はまた教えて。楽しみにしてるね!」
ぽこん。
「めっちゃ楽しみにしてる!」
盛岡駅の裏側の小さなバスのロータリーに停まった高速バスから人がゆっくりと降りてくる。この時期の高速バスはまだ混雑のピークではないらしい。スーツ姿の中年のおじさん。白髪交じりの夫婦。高校生らしき女子二人。続いて、黒縁の丸眼鏡をかけ、黒髪にパーマのかかったボブヘアの彼女。ぱんぱんにつまったカーキ色のリュックを背負っている。
おしゃれなのに、ぱんぱんなリュックのせいでアンバランスなこの感じ。変わらない彼女で、嬉しくなる。
おかえり、ただいま、と言いながら少しぎこちなく抱き合って、二人は顔を見合わせた。変わらないねえ、と社交辞令のような言葉を交わした。
「帰ってきてくれてうれしいよ。岩手で、何したい?」
「それなんだけどね。」彼女はいたずらっぽい笑みを眼鏡の奥に浮かべた。
「今回私、盛岡の食い倒れ旅をしたくって。」
食い倒れ旅。「私もやってみたかったことのひとつ!」
「それはうれしいわあ。私も海も食べるの好きだけど胃は強くないから、海とはペース合いそうかなと思って。」
まさか、それで私と岩手を選んだのかな。どんな理由でも会いに来てくれるのはうれしいけれど。私の胃が弱いこと覚えているなんてさすが、と明るい笑いが込みあげてくる。
「それで久しぶりに岩手きたのね。」
海は懐かしい彼女をじっと見つめた。彼女は小さくて白くてかわいいのに実は驚くべき行動力とエネルギーを持っている。もちろん久しぶりに岩手に帰ってきて海に会いたくなったんだよ、とかなんとか、慌てて付け足している。
まるで山羊みたい。あ、そういえば。
「明日時間あったら、宮古の山羊のレストランとケーキ屋さん、行ってみない?ヤギミルクのヨーグルトとかお菓子とか、すごいみたいだよ。」
「山羊。それ、めちゃめちゃ気になる。」
彼女はぴょんと飛び、顔をわたしに向けて目を輝かせた。重そうなリュックも反動で大きく跳ね、重力に従って下に沈み込む。彼女が顔をしかめた。
「でもとりあえず、おなかすいちゃった。盛岡の女子大生の海さん、どこかおすすめある?」
どこが盛岡らしくておいしかったかな、と自分の頭の中を探る。
「やっぱり、三大麺?じゃじゃ麺、冷麺、わんこそば。」
うんうん、と彼女が私を見つめて丁寧に相槌を打ちながら聞いている。
「それか福田パン。ちょっと遠いけど本店は建物レトロだし楽しいよ!あと、回転寿司なんだけど目の前で握ってくれる一〇〇円寿司があってね、そこ結構おすすめ。」
口に出してみると、ぽんぽんとお店が思い浮かんだ。盛岡って県庁所在地なのに栄えてないよね、とは大学の友人との間でよく聞く自虐だけれど、実は駅のそばにはおいしくて雰囲気の良いお店はたくさんある。学生が遊ぶ場所が盛岡にあるかといわれれば、やたらカラオケ何店舗もあるくらいだけど。もちろん、長期休暇にちょっと足を延ばしたら行ける田沢湖畔のバーベキューは最高。
「お寿司そこ行きたい!一〇〇円寿司で目の前で握ってくれるとかめちゃいいじゃん。」
彼女はリュックを背負いなおした。重い荷物はとりあえずロッカーに預けに行ったほうがいい。
「私、三大麺とベルくらいしか覚えてなくって。ほら、あのハンバーグチェーンの一号店だっていうファンタジーなとこ。子どものころ大好きだったなあ。親は、海ちゃん他にも今どきの店詳しいんじゃないって言われたんだけど、その通りだったね。」
とりあえず駅のロッカーに向かいながら、彼女が言う。「あのさ、お昼、じゃじゃ麺でもいい?海はあれ、嫌いじゃないっけ。」
やっぱり、彼女も盛岡出身の人だ。
彼女の言葉を聞いてそう感じた。
なぜって。じゃじゃ麺は盛岡市民でも好きな人と好きじゃない人が分かれるというので有名な食べ物だから。
「普段はわざわざは食べないけど、普通に好き。」
普通に、という言葉に私たちは顔を向かい合わせて笑った。「うちの親も、そう言ってた。」
「でも、私実は、あれ大好きなの。冷麺はスーパーで売ってるやつでも結構再現率高いし焼き肉の〆で有名だけど、じゃじゃ麺ってなかなか関東だと見なくて。」
駅の中のじゃじゃ麺専門の店で、彼女は大、私は中を頼んだ。もちろん、ちーたん―――最後に残ったじゃじゃ味噌に卵を入れて作ってくれるスープ――つきで。つけないという選択肢もあるけれど、それは私でさえもったいないと思う。あれはおいしい。一〇〇円だし。
うどんのような麺の上に乗ったじゃじゃ味噌が、じゃじゃ麺の全てといっても過言ではない。店によって伝統があるらしく、そこでも好みが分かれるという。ちなみに海の両親はじゃじゃ麺の好みの店が違い、私はじゃじゃ麺よりも冷麺派なので、家族で行くなら焼肉からの冷麺コースだった。
「うん、やっぱりおいしい――。あのさ、私おごるからさ、最終日のお昼もじゃじゃ麺でもいい?」
イラストのようなキラキラな目で彼女は私を見つめた。
「いいよ、もちろん。」
やったあ、ととても嬉しそうな顔。
「東京の中学の給食でね、ジャージャー麺ていうのが献立に乗っててね、これ――じゃじゃ麺だと思ってすごく楽しみにしてたんだけど。」彼女はそう言って首を振り、肩をちょっとすくめる。
「まさかの、麺は中華麺だし完全に別物だったのよ!中華料理のひとつで、盛岡のじゃじゃ麺の元らしいんだけど、ショックだったあ。」
じゃじゃ麺を食べ終え、一人暮らしをする私の家まで三〇分歩き、家に荷物を置いた。三時だ、何か食べなきゃということになって、大学のそばのカフェに向かう。入口側が一面ガラス張りで、コーヒーの種類もお菓子もいろいろある、私のお気に入りのカフェ。身軽になった彼女と私と二人で、スキップもどきの軽い足取りで細い住宅街を抜ける。
盛岡に住んでいない人が私の好きな場所に来てくれるって、なんて不思議で素敵なことだろう。高層ビルが立ち並ぶ東京の人混みを写した写真の中から彼女だけを切り抜いて、そのまま盛岡の町中を走らせているみたい。
カフェに入って注文をして席に着くと、顔なじみの店員の女の人がスコーンとドリンクを持ってきた。食い倒れ旅をしに来た彼女を紹介すると、じゃあ、と言って明るい声で盛岡について語ってくれた。
「アメリカの某コーヒーチェーンあるでしょ、あれがつぶれる町、ってフレーズをうたう人もいるのよ。個人経営のカフェがたくさんあるから、ってね。まあ、つぶれたところ私は見たことないけどね。」白いコーヒーカップと大きなスコーンの乗った平らな丸皿を私たちの前に置いてにこりと笑った。「ごゆっくり。」
二人はしゃべりながら、大学構内の広い植物園内をぐるっと散歩した。大学のすぐ近く、分厚いテレビで刑事ドラマが流れている古びた寿司屋で海鮮丼をお腹一杯食べ、家に戻った。
「明日、宮古の山羊楽しみだなあ。ウニもこの時期だよね。食べられるかな。インスタのストーリーに宮古来たってあげたら、友達はみんな宮古島だと思うんだろうなあ。岩手だよ、て言わなくちゃ。」
「だね。頼んだよー。」私はベッドから、彼女は床に敷いた布団からぼやけた暗い天井を見つめる。羊の代わりに、今日は山羊を走らせてみる。
「遠くから会いに来ておいしいもの食べるって、すごく特別で楽しいね。おいしいとこ見つからなかったら、ずっとじゃじゃ麺にしようって思ってたけど。」
「すごいじゃじゃ麺推すのね。」
彼女は私のリアクションを聞いて、嬉しそうに続ける。
「推す!あと二日の食い倒れで心移りしないとは言い切れないけどね。」
彼女が動いて、薄い布団がこすれる音がした。
「海が岩手にいてよかった。一人で知り合いが誰もいない地元に帰るって、ちょっと寂しいなあって思う。」
天井から移動して瞼の裏に走っている山羊たちをちょっと押しやる。
「私も、引っ越してからも遊びにきてくれて、すごく嬉しいよ。」
私の薄い布団がくい、と右下から軽く引っ張られた。
「海、私ね、人がたくさんいると自分は自由って感じがして、東京は好きだなあって思う。満員電車さえもわりと嫌いじゃないくらい。だけど、」
「彼氏に振られたり、インターン落ちたり、バイトは優秀な後輩が入って気づいたら私のシフトが減ってたり、そういうのが続いちゃうと、冷たい街に感じちゃって。忙しく充実してる人がたくさんいる人たちの中で、失ってばかりの私には何もない気がした。」
「うん。」
「逃げたい気持ちになって、久しぶりに盛岡行こう、て思ったの。それで、たくさんのバスと人が並ぶバス停でバスに乗って、でも降りるときには、かすかな記憶の駅の裏のバス停に、懐かしい海がいて。なんだか、私、幸せだなあ、て思った。」
私は、山羊たちを瞼の裏の暗闇に置いたまま、目を開いた。
「何回でも、食い倒れしにおいで。」
ありがとう、と小さな声が言った。
「―――ねえ、夜眠れない時に羊を数えるっていうじゃない。」
暗い天井を見つめたまま、私は口を開いた。
「今夜は眠れないわけじゃないけど、明日に向けていい夢が見られそうだから、一緒に山羊を走らせない。」
突然だなあ、と彼女は笑った。「じゃあ、岩手山のふもとからてっぺんまで、私も一緒に山羊と走っちゃお。」
瞼を閉じて、山羊たちの間に今度は、はだしの彼女を混ぜてみる。黒髪の彼女は白いワンピースを着て、岩手山のきれいな三角形のてっぺんを望む、なだらかな坂の牧草地を白い山羊たちと走っていく。一面に広がる緑には、白と黒のまだら模様の牛がぽつりぽつりと散らばっている。
私は小さくなっていく彼女と山羊たちを横目に、一番近くにいる牛に近づいた。地面に近づけていた顔をぐいと上げ、長いまつ毛の大きな目がこちらを向く。私は、そこで足を止めてじっとその大きな目を見つめる。
牛は、私から視線を地面に戻すと、再び、一心に草を食べ始めた。