二〇二二年八月十三日、僕は盛岡へ行くことを諦めた。十三日からの一泊二日の旅程がちょうど台風の接近と重なり、また身近に新型コロナウイルスの感染が広がってきたこともあって、いまは行くべきときではないと誰かにいわれている気がした。でも不思議と悔しくはなかった。盛岡に会いたい人がいて、人と会うのが不安なまま会いたくなかったし、それに僕は夏の盛岡を見に行きたかった。今年は行けなくてもまた来年、夏になった盛岡へ行けばよかった。
僕は茨城にある、ひたちなかという街で生まれ育った。南北に伸びる茨城の中央部、沿岸に位置するこの場所は漁業と工業が盛んな街だ。海沿いの港町にある魚市場は県外からの観光客が来るほど賑わっている。幹線道路である国道六号線沿いには日立製作所の子会社の工場やオフィスが並ぶ。その他にも、干し芋の一大生産地であったり、ゴールデンウィークの頃にネモフィラという花が一面に咲く青い丘があるのもここだ。悪くない街だと、住んでいて思う。
二〇一一年三月十一日、そのとき僕は高校生で、ひたちなかから二十キロメートルほど北にある日立という街の高校にいた。三階の教室で英語の授業を受けているときに地震が発生し、揺れが収まったあとグラウンドに避難した。
通学に使っていた常磐線の電車が地震の影響で不通になってしまったため、その日の夜は日立にある母の実家で一泊した。通っていた高校から母の実家まで初めて歩くと、すぐに着くと思っていた道のりに一時間かかった。夜には、近くに職場があった母と合流して、翌朝、母の運転する車で自宅まで帰った。帰っていく途中、海に近い道路を通っていると数台の車がひと塊になって縁石に乗り上げていた。なぜそうなっているのかその時は分からなかったが、あとになってあれは津波に流された車だと分かった。自宅では一週間ほど電気と水道が通らなかった。幸いガスだけはプロパンだったため使えたが、夜は眠るまで蝋燭を灯した。
茨城にも沿岸部には津波が到達した。しかしそれは東北地方の甚大な被害を前にして、あまり知られていない。僕たちは確かに被災したはずなのに、東北地方ではない茨城は被災地ではなくなってしまった。東京の人々が作るテレビ番組はしきりに被災地を応援している。でもそれは僕たちのことではなくて、もっと北のほう、原子力発電所が爆発したり大津波に街一帯を失った人々に対するエールだ。テレビが声高に叫ぶ「絆」は僕には繋がっていない。
三月十一日になるとみんなが一斉になにかを思い出すのが僕は嫌だった。僕たちが思い出せない間も被災者は被災者なのに、三月十一日だけ「絆」という言葉を持ち出すのは都合の悪い嘘をごまかしているような気がした。特に「十年目」なんて節目は、せめて僕は絶対に「絆」と一言も口にしないで三月十日や三月十二日となんら変わらない一日として過ごしてやろうと密かに意気込んでいた。それくらい僕は東日本大震災についてなにか語ろうとする人間やその気配を忌避していた。
東日本大震災から十年目の二〇二一年三月六日、一編の小説に出会った。盛岡出身在住の作家、くどうれいんさんの『氷柱(つらら)の声』だった。雑誌に掲載されていた短歌を読んだときから気になっていた作家の小説で、エッセイを何編か読んでいたこともあり、どんな小説を書くんだろうと気になり手に取った。読み始めるとその小説は震災の日の出来事を語り始めた。一瞬逃げ出しくなるのを堪えた先には僕がいま読みたかった文章がそこにあった。盛岡が舞台の話でありながら、僕が十年間震災について思い続けていたことがその文章にすべて書いてあるように思えた。
僕は『氷柱の声』によって十年目を恨まずに済んだ。あらゆるメディアで十年目という話題は触れられていたが、極端にそれを忌避しようと思わなかった。テレビや新聞には載らない僕の十年目があるのだと分かったからだ。
それからというもの、生まれたばかりの鳥の子が初めて見たものを親と思って追いかけるように様々なくどうれいんさんの作品を読んでいった。その中に『わたしを空腹にしないほうがいい』というエッセイがあった。珍しくアマゾンではその本の取り扱いがなく取り寄せできなかった。その頃『氷柱の声』が芥川賞候補に選出され「きっと茨城のどこかの本屋で出会えるだろう」と思い、本の購入を急がなかった。
しかしなぜかいつになっても本屋で『わたしを空腹にしないほうがいい』に出会えず、その本について詳しく調べてみると大手の出版社ではなく盛岡の本屋が出版していると分かった。もうどうにも読みたくて仕方がなかった僕は、本屋での偶然の出会いを諦めてその盛岡の本屋から本を取り寄せた。
数日後、レターパックに入って自宅に届いたその本は思っていたよりも小さかった。文庫本くらいの大きさで、およそ八十ページほどの本だった。レターパックに書いてある送り主の住所を見ると確かに盛岡で、盛岡出身在住のくどうれいんさんがいるところと同じ土地からはるばる来たのだと思うと感慨深い気持ちになった。盛岡はどんな場所なのだろうと、知らない土地への興味が僕の中で芽生え始めた。
二〇二一年の秋、僕が日立で足しげく通っているブックカフェで選書させてもらえる機会があった。どんな本がいいだろうと思い悩んでいる時にカフェの店主から「好きな本を選んでいいよ」と一言あった。「好きな本」と思ったとき、真っ先にくどうれいんさんの本たちが頭に浮かんで、それだったら全部並べてもらおうという気持ちになった。特に『わたしを空腹にしないほうがいい』を手に取れる場所が茨城の中にできたならばどんなにいいだろうと、とてもわくわくしていた。いても立ってもいられず、くどうれいんさんの本のリストをカフェの店主に送った。
その盛岡の本屋はBOOKNERD(ブックナード)という名前だった。カフェの店主に本を取り寄せてもらうまで本屋の名前をよく覚えていなかった。BOOKNERDの店主は早坂さんといった。
「早坂さんが書いたエッセイにくどうれいんさんのことが書いてあったよ」
カフェの店主のその一言で、親鳥を追う雛のようにくどうれいんさんを追いかけていた僕はBOOKNERDの早坂さんのエッセイが気になり始めた。秋は次の季節に向かって深まりつつあった。
二〇二一年十一月、新型コロナウイルスの感染拡大状況は何度目かの波が落ち着いた時期にあった。僕の心に芽生えていた盛岡という未到の地への憧れは日に日に増して、その気持ちはいまにも溢れそうだった。そのことをカフェの店主に話していた。
「雪が深くなる前に行こうと思っているんです」
「じゃあ行くとしたら早く行かないとね」
そのとき僕はすぐにでも盛岡に飛んで行きたいと思った。その日のうちに新幹線とホテルの予約を取り、十一月の末に盛岡へ行くと決めた。
くどうれいんさんがどんな土地で作品を書いているのか見てみたかった。それは宮沢賢治を訪ねに花巻へ行くようなものだった。僕は盛岡の地を踏めればそれで十分で、BOOKNERDへの訪問以外はまるで予定を立てていなかった。無計画に茨城から四百キロメートルはゆうに離れている場所へ、それも一泊二日で旅しようと思っていた。街を無計画に歩くのは好きだから、食事をする場所だけ行きの新幹線の中でスマホで調べて決めればいい。そう思っていた矢先に盛岡でのくどうれいんさんのサイン会の開催が発表され、それがあろうことか僕が盛岡へ行く日程と一致した。盛岡の街を見て回れれば十分と思っていたのに、くどうれいんさんに会えるなんて。僕はますます盛岡への並々ならぬ憧れをたっぷりと抱えて十一月を過ごしていた。
十一月二十三日、くどうれいんさんの体調不良によりサイン会は中止という知らせが入った。確かにとても残念だったけれども、盛岡を訪れることが元々の目的だった僕は少しもめげていなくて、その気持ちそのままにくどうれいんさんへ手紙を書いた。返事は来ないと思い、その手紙の文章とブックカフェに並んだくどうれいんさんの本の写真をメールに添付して、くどうれいんさんのメールアドレスへ送った。
翌日、くどうれいんさんから返信が届いた。返信が届いただけでも嬉しかったのに、盛岡に来るのならと、いくつかおすすめの場所を教えていただいた。それは、くどうれいんさんを訪ねる盛岡の旅にとってどんなガイドブックよりも意味と所以のある情報だった。
十一月二十七日、盛岡へ行く電車に乗っているとひどい乗り物酔いになり、胃がむかむかしているのを堪えていると不意に大きな山が見えてきた。「大きな山」というだけでは伝え足りないほど迫力のある山で、のちにそれは岩手山という名前の山だと知った。富士山と同じく噴火によってできた山で、山の天辺は深く雪をかぶっていた。新幹線の窓越しに岩手山を見ているだけで僕はまるで異国に来た感覚になり、ここが本当に茨城と地続きで繋がっているのかと不思議で仕方なかった。「盛岡に来てよかった」と、駅に降り立つ前から感動と興奮に満ちていた。
盛岡駅に着くとまっすぐBOOKNERDへ向かった。駅を出ると、初めて見る景色がそこに広がっていた。駅前の大通りがどこから来てどこへ行くのか、バスの行き先に書かれている地名が一体どこを指し示しているのか、目の前の地下道はどこへ伸びているのか、近くを流れている川の名前も、その川を越えるための橋の名前も、なにひとつ分からないことが嬉しかった。
BOOKNERDは駅前の大通りを抜け、盛岡城址公園を横切り、中津川という川を渡った先の紺屋町にあった。長屋のようなビルの一階の本屋へ茨城から五時間かけてたどり着いた。引き戸を開けて中に入ると右手に本がずらりと並んでいる。お店の中ではレコードの音楽がかかっていた。本は手に取る誰かを待つように静かに並んでいて、しかし本を見ていると心は少しも静かではいられなかった。どこから眺めようか、どの本から手に取ってみようかと、わくわくして本棚を眺めていると黒い背景に男の子がポツリと描かれている表紙の本を見つけた。その本が早坂さんのエッセイ『ぼくにはこれしかなかった。』だった。今日はこれを買って盛岡のカフェで読もうと思った。
店の奥にあるレジにいた男性が早坂さんだった。本を買うときに、日立のブックカフェでくどうれいんさんの本を選書したことを話した。僕はそのとき早坂さんがどんな人なのか少しも知らず、会話もほどほどに『ぼくにはこれしかなかった。』を鞄に入れて盛岡城址公園近くのカフェへと歩いていった。
カフェに着くと早速、本を開いた。さっきまで目の前で話していた人のエッセイを読み始めるのは奇妙な感覚だった。まるで早坂さんの日記を盗み見ているようで、しかし最初は本人とエッセイの内容が一致しなかった。初めて会ったとき、早坂さんはずっと前からああやって本を売って生きてきたように僕には思えたからだ。でも実際はそうではなかった。僕は一体誰の人生の一部を読んでいるんだろう。異国のような地でさらに僕はストレンジャーらしさを増していった。日が暮れても相変わらず胃はむかむかしていて、すぐにでも夕食にありつきたいのに無事に胃へ入れられるものを選ばなければいけなかった。お酒や油ものはいけない。どこかやさしいものを食べさせてくれる場所はないだろうかと冷え込みが増していく夜の盛岡の街の中でくどうれいんさんがおすすめしてくれた場所のリストを見る。ふと「なんか元気になる」というコメントが書かれた一店を見つけた。その店は「く(く)ふ(う)や(や)」といった。
見知らぬ土地での寒さと空腹と胃の不調にめげそうな心を奮い立たせ、元気になりたい一心でくふやへと向かった。グーグルマップを開き、中津川沿いを歩いていくと手のひらのスマートフォンは「目的地付近です」といったが、ビルの一階に背の丈ほどのガラスの引き戸があるのみで「本当にここでいいんだろうか……」と不安になりながらも、元気になりたい気持ちがまさり、内心「えいやっ」と意気込み引き戸を開けると確かにそこがくふやだった。
くふやに入ると少なくとも僕の二倍は生きている男女のおふたりが迎えてくれた。天井は吹き抜けのように高く、音楽はかかっていなかった。ストーブが石油を燃やす音と、その上にかけられたヤカンのお湯が沸く音だけが聞こえて、あとはほんとうに静かだった。
男性の方から「ご紹介ですか?」と聞かれ、思わず「くどうれいんさんから教えていただきました」と答えるとうきうきしてしまった。直接会って紹介してもらった訳ではないけれど、でも間違いなく本人から教えてもらったのだと改めて思うと、僕はむしろサイン会が中止になってくどうれいんさんに会えなくてよかったと思えた。サイン会が予定通り開催されていたらサイン会でくどうれいんさんに会うことばかり考えてしまっただろうし、おすすめの場所を教えてもらうこともなかった。
くふやの夕食はほんとうにおいしかった。調子の悪い胃にもやさしく、食べ終わる頃にはなんだか元気になっていた。玄米ご飯、お味噌汁、焼き魚、肉煮込み、野菜の和え物、卵焼き。どれをとっても素朴で実直な和食だった。
くふやの女性の方から「れいんちゃんのお友だち?」と聞かれ、友だちではなく茨城から来て盛岡を巡っているのだと伝えると最近盛岡にできたばかりのおすすめの場所を教えてもらった。
くふやのおふたりと話していると、あっという間にそのおふたりの佇まいが好きになってしまった。頂いた料理のように素朴で実直なおふたりだった。また盛岡を訪れることがあったら必ずここに来たい。そう思いながら店を出て、お腹の辺りに手を当ててほくほくしながら中津川沿いの道を歩いていった。
宿泊するホテルの部屋で、眠る前に『ぼくにはこれしかなかった。』を読んでいると早坂さんがくどうれいんさんに出会う場面にたどり着いた。そこから一気に読み進めて、日付が変わる前には本を読み終えていた。読み終わってすぐ、明日もBOOKNERDへ行こう、最後にBOOKNERDに寄ってから帰ろうと思い立った。読後に沸き立つこの感情の理由を整理しきれないまま、明日早坂さんに会って話がしたいと思って眠った。
十一月二十八日、盛岡駅から盛岡城址公園のほうへとまた歩いていった。もう僕は異邦人ではなくなっていて、ずっと前からこの街を知っているような気になってグーグルマップを見ずに街を歩いていった。街のどこからでも岩手山が見えて、そのあまりの迫力にどこで見てもぎょっとした。川沿いの視界が開けたところからその全貌が見えると思わず「でかい!」と声が漏れる時もあった。岩手山がすっかり好きになってしまって、その日の早朝のうちに寄った盛岡の美術館で岩手山の写真を買ったくらいだ。
昼食にじゃじゃ麺という盛岡のソウルヌードルを食べた。白龍(パイロン)という店で、行列ができていた。うどんのような麺に肉味噌が乗っかった汁なし麺だ。「ちいたんたん」といって、麺を食べ終えたあとの器に生卵を溶き入れたところへ温かいスープを入れてもらい卵スープにして飲む、という独特の作法があり、器に残った肉味噌がスープに溶けておいしい。
昼食後、くふやで教えてもらったおすすめの場所を思い出した。その場所は盛岡の開運橋通りにあった。「リタ」という店で、駅の方へ少し戻るように歩く。目的地が変わると歩く道が変わり、僕はまた知らない街を歩く喜びを感じた。盛岡はまだまだ広い。リタは食と体にまつわるモノの販売と絵画や写真などの企画展示をする店で、店に立っていた男性のスタッフの方にくふやのおふたりからの紹介で来たという話をした。それから僕がなぜ盛岡を訪れたのか、そのいきさつを彼に話した。
「そうしたら光原社に行くといいですよ」
彼からまた新たに盛岡の素敵な場所を教えてもらったとき、今回の旅は盛岡の街の人々に案内されて巡る不思議な旅だなぁと思った。
いままでの行き先を自分で決めて行く旅とは違い、街の人どうしの繋がりに触れながら進んでいく旅は、どうしてこんなにもあたたかいんだろう。
光原社は駅の近くの材木町にあるので、そこへ行く前にBOOKNERDに足を運んだ。早坂さんに初めて会ったときよりも歩を進める足が速かった。
二度目に行くBOOKNERDは一度目に行った本屋とはまったく違う意味でそこにあった。そして早坂さんも、エッセイを読み終えたあとでは、少なくとも「ずっと本屋で本を売っていた人」だとは思わなかった。BOOKNERDは僕にとっての盛岡の拠点で、BOOKNERDを起点にして始まった旅がBOOKNERDに寄ることで終わってゆくのを感じた。早坂さんにこの二日間で起こったことを話し、盛岡がどんなに素晴らしい街だったか興奮気味に話したあと、
「盛岡に移住したいくらいです」
僕はそう口に出していた。移住したいと思える街がいままでどれくらいあっただろう。子どもの頃、東京ディズニーランドが近いからというだけで千葉の浦安に住みたいと思った記憶はあるが、それは街が好きなのではなかったし、純粋に街を巡ってみて「住みたい」と思えたのは初めてだった。街には北上川や中津川が流れ、街のどこからでも岩手山を望める。古い建物がいくつも残り、何度も訪れたい本屋があり、元気になれるごはんを出してくれる店があり、そしてなによりも、それらすべてがゆるやかに繋がっている。
そのゆるやかな繋がりの中に僕も入りたい。早坂さんと話しているときに本気でそう思った。すべてが許されるなら、茨城へ帰らずにずっと盛岡にいたかった。
「また来ます」
そう告げて僕はBOOKNERDをあとにした。盛岡駅までの帰り道に光原社へ寄ってお土産にくるみクッキーを買った。光原社が宮沢賢治の『注文の多い料理店』を発刊した場所だと知ったのは茨城に着いたあとだった。
二〇二二年の春、四月に『10年目の手記』という東日本大震災の手記をまとめた本の出版記念トークイベントが盛岡にある岩手県公会堂で行われることになった。トークイベントにはその本の筆者である瀬尾夏美さんと『氷柱の声』を書いたくどうれいんさんが登壇すると知って、春になったら盛岡を訪れたいと思っていた僕は迷わずトークイベントのチケットを買った。『氷柱の声』を読んでから一年が経ち、震災と自分の関係性を改めて考えたかった。『10年目の手記』をBOOKNERDのウェブストアで注文すると『わたしを空腹にしないほうがいい』が届いたときと同じように盛岡の住所が書かれたレターパックが届いた。僕にとってその住所は以前のように憧れの土地ではなかった。そこにいる人たちのことや場所がしっかりと思い浮かんだ。岩手山や中津川のある風景がありありと見える。その風景が春を迎えるとどんなふうに見えるだろう。盛岡の春の空気はどんな匂いがするんだろう。
『10年目の手記』は東日本大震災に関わる手記を集め、読み、そしてそれを紐解いた本だ。一般的な手記を集めた手記集というよりも、手記集を読んだ手記であり、集められた手記をどう読み解けるか、読み手の立場からの考察が記されていて手記を客観的に読める。読んでいるうちにこの手記を集める活動の中で瀬尾さんが茨城に訪れていたと知った。僕も何度も足を運んでいる芸術館で手記の展示をしていたが、僕は相変わらず十年目への忌避の気持ちからその展示を見ていなかった。その手記が本となって盛岡を経由して茨城にいる僕の手元に来たのだと思うとおかしな気がした。ずっと食わず嫌いしていたことも盛岡を通ってしまえば途端に受け入れられてしまう。
思ったよりもずっと早くその本を読み終えて、盛岡へ行く道をずっとグーグルマップで見ていた。今度は乗り物酔いをしないようにと自分で車を運転して盛岡まで行くと決めた。
四月十六日、盛岡へ続く道に朝から車を走らせていた。茨城から高速道路で北へ北へと進んでいくと「この先帰宅困難地域」という看板が出てきた。人が帰れない土地の上を高速道路が通っていて、そこに人が車を走らせている。人の生活の気配がない地平を横目に見た。元々そういう土地なのか、長らく人の手が加わらなかったのか、僕には分からなかった。しかし十一年経っても人が住めない場所がそこにあるんだと思うと恐ろしかった。
ひたちなかは隣の市町村である東海村に原子力発電所を持つ街だ。だから、福島の原子力発電所の事故も他人事ではない。震災よりもずっと前、東海村の原子力発電所で使う核燃料を加工する工場で事故があった。国内で初めて事故被曝によって死者が出た。その事故の日、まだ小さい子どもだった僕は家の中にいるようにいわれ、その通り家にいただけだったが、改めて調べてみると恐ろしい事故だった。
帰宅困難地域を通っているときにも東海村での事故を思い出した。僕が住んでいるひたちなかも、もしかしたら同じように誰も帰れない街になっていたのかも知れないと思うとただただ恐ろしかった。早く帰宅困難地域を抜けたい。変わり果てた自分の街の姿を見せられている気分だった。
盛岡は春だった。桜は花の盛りで、中津川はやわらかい日差しを川面に受けて光っていた。岩手山に被っていた雪は季節の移ろいに従って溶けて、以前見た姿とはまた別の表情を見せていた。
昼頃に盛岡へ着いた僕はくふやへ向かった。店に入ると変わらずにあのおふたりが迎えてくれた。遠い道のりを車で走り、ようやく着いたこの場所で家に帰ってきたように安心してくふやのごはんを食べた。旬の食材が並ぶ定食を食べ、胃の調子がすこぶるよかった僕は豆かんを追加で注文した。すると、くふやの女性の方が話しかけてくれた。
以前一度くふやに来たこと、今日、くどうれいんさんが出るトークイベントに行くこと、今回は車で盛岡で来ていることを伝えた。
「でしたら、とてもよいところがございますよ」
そういって、喫茶GEN(ゲン)・KI(キ)という店を教えてくれた。朝は日の出の前から開いている珍しいカフェだった。そのカフェはここから東へ少し車を走らせた展望台にあるカフェで早朝から盛岡の街並みとその奥に岩手山を望める。
「いまだったらちょうど鷲が見える頃ね」
岩手山は別名「巌(がん)鷲山(しゅざん)」と呼ばれているのだと教えてくれた。春になると岩手山の山頂の雪が溶けて、その残雪と山肌の模様が飛んでいる鷲のように見える。せっかく車で来たのだから明日はそのカフェで巌鷲山を見ようと思った。
それから、渋民(しぶたみ)のことも教えてくれた。渋民は盛岡の市街地から北に行った場所で、くどうれいんさんや石川啄木の出身地だという。渋民からは市街地から見える岩手山とはまた別の角度からの姿が見える。その話を聞いて僕は渋民から見える岩手山が見たくなった。
春の盛岡の街を歩いているとそこかしこで桜が咲いていた。特に内(うち)丸(まる)にある石割桜は見事だった。江戸彼岸桜という品種で、樹齢は三百五十年とも四百年ともいわれる。その桜が巨大な一枚岩を割って鎮座していた。太い幹がどっしりと岩の割れ目に乗りかかり、そこからいくつもの枝が伸びている。桜の花の美しさよりも、その幹の猛々しさに見入った。
夕方五時から始まるトークイベントの会場に少し早く着き、開場の時間に岩手県公会堂へ入るとイベントの受付に早坂さんがいた。慌ただしそうな雰囲気に、挨拶もそこそこに僕は会場の席に着いた。
トークイベントは早坂さんが司会を務め、瀬尾さんとくどうれいんさんがそれぞれの著書と立場から話を進めていった。誰がいっただろうか、この言葉が記憶に残っている。
「あとから被災地でなくなった茨城と、あとから被災地になった盛岡は、似たような境遇にあると思う」
その言葉を聞いて『氷柱の声』がなぜあんなにも僕の心に響いたのか分かった気がした。社会の大きな流れの中で、本来とは異なった立場に置かれてしまった僕たちは、その流れにどうにか抗おうとしていたんだと思う。
『氷柱の声』の中で「希望のこども」という言葉が現れる。大きな喪失から立ち直る希望の象徴としてのこども。それは誰かにとっては希望の光でもあったし、一方では背負わされた十字架でもあった。背負えなかった十字架が誰かの背に重くのしかかる姿を見て苦しむ人もいれば、その希望の光があまりにも痛々しくて直視できない人もいた。
当時高校生だった僕やくどうれいんさんは間近でそういうものを見ていたのではないかと思う。それは盛岡であっても茨城であっても同じだった。
トークイベント終了後にサイン会があった。『氷柱の声』にサインを入れてもらうときにくどうれいんさんへ僕の名前を伝えた。
「ようやくお会いできましたね」
くどうれいんさんはそういった。いざ会ってみて、なにを話すのが適切か分からなかったし、なにを話したのかよく覚えていない。ただ、読者としての僕はそれでよかった。くどうれいんさんは誰の親鳥でもなく、そこに生きるひとりの人間だった。
会場を出るとき、忙しそうに片付けをする早坂さんが「よかったら明日店に来てください!」と僕に一言投げかけてくれた。およそ半年振りに会った早坂さんからそういってもらえたのが嬉しくて、必ずBOOKNERDへ行こうと決めた。
翌朝、喫茶GEN・KIから盛岡の街と岩手山を見た。岩手山をはじめ奥羽山脈を前に広がった盆地で営まれている人々の生活と街の景色があり、そしてその曙の空には春を告げる鷲が飛んでいた。これが盛岡の春の朝だ。
喫茶GEN・KIで朝食を食べ終えたあと、車を渋民へと走らせた。四十分ほど山あいの道を走ると石川啄木記念館が見え、そこに車を停めた。時刻はまだ朝の八時で記念館はまだ開いていなかった。渋民ではまだ桜が咲いておらず、蕾が膨らんで色づいてはいたが花を咲かせるのはまだ先のように見えた。近くを散策していると体が冷えてくる。市街地と違ってこちらはまだ春を迎えたばかりらしい。
渋民公園の中に入っていくと石川啄木の短歌が彫られた歌碑が現れた。そしてその歌碑の先には、渋民から望む岩手山がゆったりとそびえている。悠々とした面持ちはどこか富士山を思わせた。石川啄木やくどうれいんさんはこの岩手山を見ていたんだと思うと、一瞬でも同じ地平に立ったような気がした。
「やはらかに柳あをめる
北上の岸邊目に見ゆ
泣けととごくに 啄木」
歌碑には石川啄木の歌がそのように彫られている。ひとり、石川啄木の歌と岩手山を眺めていた。
開館した石川啄木記念館を訪れると、石川啄木が書いた小説『鳥影』の解説の一文に「盛岡の渋民には『障子に鳥の影が映るのは来客の兆しである』という言い伝えがある」と書いてあった。きっとその鳥は岩手山の向こう側に現れる鷲のことだろうと僕は読んだ瞬間に思った。鳥影は渋民に春の訪れを伝えるのだ。
BOOKNERDへ行くと店の前でみんなで編み物をしていた。靴下を編むイベントで、早坂さんは早坂さんの奥さんや子どもと一緒だった。みんなが店先で編み物をしている様子を僕はコーヒーを片手にゆったりと眺めていた。
編み物のイベントのあと、本を買いながら早坂さんにふたつの岩手山を見たと話した。鷲が飛ぶ山のことと石川啄木とくどうれいんさんが見てきた山のこと。そしてそれはゆるやかな繋がりの中で巡った盛岡の景色だということ。
盛岡で起こった出来事を早坂さんに話したくなるのはなぜなのだろう。盛岡でこんなことがあって、それがとても素晴らしかったのだと伝えずにはいられない。僕は盛岡での経験を盛岡の人たちと共有したいのだと思う。
「また来ます」
僕は再びそういって早坂さんと別れた。秋と春の盛岡に訪れ、次は夏の盛岡を見てみたいと思った。夏の岩手山はどんなふうに見えて、北上川や中津川はどんなふうに流れていて、街の空気はどんな匂いがして、くふやではどんなごはんが食べられて、そして早坂さんとどんな話ができるのか。燦々と降り注ぐ真夏の日差しがもうそこまで見えそうだった。
八月十三日に盛岡へ行こうと決めたのは、予定がそこしか空いていなかったのもあるが、なんとなく帰省めいていてうきうきしたからだ。「今年は帰れなかったな」と思っている自分がいて面白かった。八月十四日、台風一過の茨城は気温が三十度を超え、すっかり晴れている。昨夜こそ雨風が強まった時間もあったが、いまはどこで吹いた風かといった様子である。
散歩へ外へ出てみると夏真っ盛りの太陽がじりじりと肌を焼く。街路樹のいちょうの木は枝にたくさんの葉をつけて青々と茂り、田んぼの稲は青い穂が膨らみ頭を垂れ始めている。夏の景色でありながら、植物は着実に秋へ向かって迷いなく突き進んでいた。
盛岡へ行くのをやめようと思ったとき、早坂さんに宛てて手紙を書いてメールで送った。どうも僕は会いたい人に会えなくなると手紙を書く性分らしい。その返信が早坂さんから届き、メールを開いた。
「お会いできないのは残念ですが、またすぐに会えますよね」
四百キロメートル離れた盛岡に会いたい人がいることが僕は心の底から嬉しかった。盛岡にはBOOKNERDという本屋が開いていて、そこに早坂さんがいる。茨城で盛岡にある本屋を思うと心があたたかくなった。
僕が住む茨城もいいところだ。でもなぜか盛岡に帰りたくなってしまう。盛岡には帰る場所がある。盛岡にいると、あのゆるやかな繋がりの中に僕も入れてもらえている気がする。
はじまりは本からだった。くどうれいんさんの書くものが僕を盛岡まで連れてきてくれた。言葉には人を動かす力がある。
地続きの盛岡へ僕はいつだって行ける。
僕はもう秋の盛岡へ進み始めている。