岩手・宮城・福島MIRAI文学賞・映像賞

岩手・宮城・福島MIRAI文学賞・映像賞2022
3県のミライを綴る「文学賞」
受賞ノミネート作品

カラスザキ寫眞館
樋口徹

 青の海

 ファインダーを覗いていると渇いた砂に足をとられる。小窓越しに見える景色は、上半が青い空、下半は蒼い海。海の色は、空の反射らしい。晴天のときは海面の彩度が高くなる。
 カメラは光を記録する道具である。シャッターボタンを押すと、本体内部でフィルムを遮光しているシャッター幕が開く。シャッター幕が身を隠したその瞬間、目前の世界を彩る光がレンズを通過してフィルムに記録される。ただそれだけの道具だが奥が深い。晴天時のように光量があれば短時間で光を記録することができる。暗所では光を多く得るため、長くシャッター幕を開き続けなければならない。長くシャッター幕を開くということは、それだけ手ブレを起こしやすくなる。暗所でもシャッター時間を短くし手ブレを防ぐこともできるが、光量が足りず暗い写真となってしまう。如何にして必要な光をフィルムに受け止めるか、状況を見定めるか、常に選択を迫られる。写真が選択の芸術と言われる所以であろう。海で撮る際は、快晴であれば波飛沫を捉えることも容易になる。シャッター時間が長ければ波はディティールを失い煙のように映る。試し撮りをしながら今日のシャッター時間は五百分の一秒でいこうと決めた。
 ふたりの準備がととのったようだ。厳密に言えば三人であろうか。新婦の身体のなかには新しい命が宿っている。ふたりはこの町で出会った。金融機関に勤め、この町に赴任した年齢の近いふたりが距離を縮めるのは自然なことであったのだろう。互いに都市部で生まれ、都市部の大学に進学し、金融機関に勤め、初任地がこの町であった。そんなふたりにとってこの海辺の小さな町がどのようなものかはわからないが、手を繋ぎ海岸を歩く姿はこの町に震災前から在る景色そのもののように思えた。気取らず自然に過ごしてほしいとふたりに伝え、ぼくはふたりのありのままの姿を、ふたりの一瞬一瞬の光をフィルムに記録した。フィルムの巻き上げレバーをまわし、シャッターを切る。その動作を繰り返しながら、その瞬間の笑顔を記録し続けた。
 日差しが強くコントラストが際立つ景色。ふたりの顔にも日差しがあたり、ほうれい線までも強烈に浮き立たせ、ファインダーの中には笑顔がくっきりと写った。コバルトブルーの背景に、一瞬の笑顔と一瞬の波飛沫。今回の写真に光として記録されなかったもう一つの命。ここにきみも写っているんだよと、いつかふたりは伝えるのだろうか。
 数週間後には次の赴任地に就くことが決まっている旦那さん。奥さんは仕事を辞め、育児に専念するとのことだ。また三人でこの町にくることがあれば、同じ場所で撮ってあげたい。三人の笑顔が一緒に写るように。

 

 橙の海

 海は時間によって色を変える。早朝は昇る太陽が水平線より遥か遠くに見え、海辺に立つ人は逆光で影になる。写真は全体的に暖色となり、そこに写るシルエットはノスタルジックな雰囲気を醸し出す。
 そんな早朝の海岸に座りこむ男性がいた。疲れてはいるが、悲壮感のあるものではない。ぼくが今日ここに来るよりも早い時間から波に乗っていたようだ。北泉海浜公園は世界的にも有名なサーフスポットだ。世界大会も開かれている。烏崎海浜公園はその隣にある海岸だ。隣とはいえ、双方の海岸は火力発電所で分断されているので、地元民でさえあまり来ない静かな場所である。そんな海岸にもサーファーはやってくる。波打ち際の濡れた砂浜は橙色に反射している。静かに揺れる炎のような砂浜に男性は座り、体の右側にボードを置き足を伸ばし休憩をしていた。お早うございますと声をかけると、笑顔で同じ言葉を返してくる。波に乗っているところを写真に撮っても良いですか、と聞くと、さらに笑顔でいいよと返してくる。顔立ちを見るにおそらく四十代くらいであろう男性は、小麦色の肌に引き締まった体は実年齢以上に若々しく見える。
 行ってみるよと一言、軽やかな足取りで海に向かう男性。ボードを海面に浮かせ、そのうえにうつ伏せとなり両手で波をかき分け水平線に向かって進む。橙色の海に浮かぶ黒いシルエット。ぼくはカメラを構えた。男性は橙の海上で静かに波を待つ。静寂のなかに波の音だけが聞こえる。時折、複数の波がまとまったかのような少し大きな波が現れる。しかしながら男性はそれらを見送る。さらに大きな波が男性に接近したとき、静寂を打ち砕くかのよう、ボード上に機敏に立ちあがり、前屈みになる。波に乗るという表現が的確だなと感じるほどに、男性の身体が波とともに移動をして、陸地の方向へ向かってくる。小刻みに何度も方向を調整しながら、波に乗り続ける男性。橙色の空と海を背景に、波に乗る男性のシルエットと波飛沫は逆光で強いコントラストを放ちながら水平線を下ってくる。ぼくはシャッターボタンを押した。フィルムの巻き上げレバーを動かし、シャッターを切る。デジタルカメラとは異なりフィルムカメラでは一枚撮るごとにこの動作が発生する。何枚撮っただろうか。時間にすればほんの数十秒のことだが、大きな動き、繊細な動き、それらの光が波の如く押し寄せてくる。ぼくも光の波に乗るかのようにシャッターを切り続ける。
 陸地間際でボードから落ちる男性。海からあがり、ボードを抱えながらゆっくりと近づいてくる。今日はあまりうまく乗れなかったよ、また機会があったら撮ってね、と笑顔で話しかけてくる。是非また撮らせてくださいと答えたものの、連絡先を交換したわけでもない男性とはその後は一度も会っていない。男性は帰り際に海岸に流れ着いたゴミを拾っていきながら駐車場の方向へと戻っていった。その瞬間も写真におさめたものの、橙色の背景にシルエットだけとなってしまい顔は写らなかった。ぼくも流れ着いたゴミを少し持ち帰った。

 

 紫の海

 夕暮れ、太陽は西に沈む。太陽光は海に対しての正面光となる。西の地平線に沈む直前まで、淡光はすべてを照らし紫色の幻想的な世界を生みだす。マジックアワーと呼ばれる時間だ。写真をはじめた直後はこのマジックアワーに魅せられた。技術以上の表現を与えてくれる特別な時間である。
 海岸にはその日の足跡がたくさん残っているが、満潮の波で明日にはリセットされている。重なりあった一日の軌跡にカメラを向ける。時折シャッターを切りながら足跡を追いかけていると、小さな骨片が落ちていることに気がついた。握拳より一回り小さい、哺乳動物の背骨の一部のような骨であった。浜辺に点々と落ちている骨片を辿っていくと、波打ち際にイルカらしき生き物の崩れかかった亡骸が横たわっていた。大型水棲生物の亡骸が流れ着くことはさして珍しいことではない。烏崎海浜公園は波や地形の影響なのか、稀にウミガメの甲羅などが打ち上がっていることもある。分解が進みはじめた亡骸を見ると、生態系の循環のなかで、自分たち人間だけは死を特別なことに考えすぎているのではないかと感じることがある。海は生と死がとても身近にある。海辺にたくさん落ちている貝殻でさえも生物が生きた証である。
 波打ち際にあるイルカの亡骸は、足跡と同じように明日には波に流されなくなっているのだろう。きっとその亡骸は、それを養分とする生き物の糧となる。カメラは構えず、彼の死を自分の記憶のなかに残すことにした。紫色に染まる幻想的な空を背景に、記憶に残すための自分自身のファインダーに光を通す。

 

 黒の海

 星空を撮影するのに海はとても適している。星を綺麗に撮影するためには長時間シャッター幕を開いて星の光を多く集めフィルムに焼き付ける必要がある。街明かりがあるとそれらの光さえも取り込んでしまい写真が明るくなりすぎてしまう。真っ暗な海岸にカメラを固定することによって、星々だけが輝く綺麗な星空を撮影することができる。
 夏の終わりの夜、天の川を撮影しようと海岸へ行くと珍しく先客がいた。暗い海岸で性別も年齢もわからないが、シートを広げ、その上でカメラを空に向け固定している。ここにいる目的は同じようだ。じゃまにならないよう、距離をとってぼくもアウトドアチェアに腰掛け、カメラの固定をはじめる。お互いに動きがわかる程度の距離。三脚にカメラをつけ、星空を眺めながらどの方角にレンズを向けるかを決めていく。暗がりのなかで波音だけが静かに聞こえてくる。真夏であればキャンプや車中泊をしている人も見かけるが、夏の終わりともなるとこの時間に人を見ることはほとんどない。打ち寄せる波の音は聞こえるものの、波打ち際がどこかもわからない。念のため波打ち際からは距離をとって場所を決める必要がある。夜は僅かに涼しさもあるが、まだ暖を取るほどでもない。カメラの位置決めが出来たので、シャッターボタンを押す。シャッター時間を長めにとっているため、シャッターを切ったあとはしばらくカメラに触れない。触れてしまえば僅かな揺れであってもブレた写真になってしまう。基本的にはシャッターボタンを押して待つだけである。カメラの方角を度々調整して、同じ動作を繰り返す。たまにカメラの設定を変えてもみる。少し離れた場所でもたまに動きが感じられる。同じことが行われているようだ。
 光のない山でも星空の撮影はできるが、夜の海は山よりも不安なく撮影に挑める。暗いとはいえ近くに道路もあり、遭難の心配もなく、野生動物に襲われる心配もないからだ。暢んびりとカメラを操作しながら時折保温性のある水筒に入れてきた暖かいコーヒーを啜る。涼しさの中にも潮風特有の少し湿り気のあるヌルい空気が漂い、まだ冷たい飲み物でも良かったかなと感じた。寒くはないから明け方まで撮影してみよう。そんなことを考えていたとき、こんばんはと大きな声で話しかけられた。遮蔽物のない海ではとても声が通る。若くはないであろう女性の声であった。こんばんはと返す。顔の見えない状況でも声を聞くと不思議と親近感が湧く。良い写真撮れましたか。明朗とした、それでいて落ち着きもある声が飛んでくる。フィルムなので現像してみないとわからないんですよ、そちらはどうですか。ぼくも大きな声で返す。フィルムで撮るなんてすごいですね。女性は笑いながら近づいてきた。笑っている表情までは見えないが、声で伝わる明るさ。華奢な手には大きなデジタル一眼レフカメラを持っている。私のほうはこんな感じですと、カメラのモニターを見せてくれた。暗いのに階調のある空がまるで海かのように、その中に光り輝く星が波飛沫かのように映し出されている。モニターの光でうっすらと見える女性の顔は決して若くはないが、表情は無邪気な子供のようだった。いくつか言葉を交わした。お互いに夜の海で同じ目的の人に出会うのは初めてだった。持ってくる飲み物を間違えてしまったという話をすると、女性は一度自分の撮影場所に戻り冷たい缶コーヒーを持ってきてくれた。お互いにいい写真を撮りましょうと、女性はまた自分の撮影場所に戻っていった。ぼくは気付けばうたた寝をしてしまい、目が覚めると日が昇りはじめていた。ふと女性のいる場所をみると、砂浜にはシートが敷かれていたであろう跡だけが残っていた。次に来るときは余分に缶コーヒーを持って来よう。

 

 白の海

 烏崎海浜公園は普段あまり人が多くはない。レジャースポットとしては近隣の海水浴場が人気なため、よく言えば穴場である。漁港の奥の堤防に隠れているため、ほとんどの人は広々とした海岸があることに気づかないのかもしれない。平日ともなれば広い海岸に数人程度しか見かけない。寂れているわけではないが観光地でもない。世界中に数多ある無名の海岸のひとつ。そんな烏崎海浜公園にも一年に一度だけ多くの人が集まる。
 まだ肌寒い季節にも関わらず多くの人が海を眺めている。それぞれの人がどのような思いでこの場所にいるかは知る由もなく、それを詮索する人もいない。春を目前にしているとはいえ、東北のこの季節はまだ冷え込みがあり、波も少し荒れていることが多い。小刻みな海面の揺れは白波となり、天候に関わらず海面は彩度の高い白布のように揺れ動く。午後二時四十六分。サイレンとともに、そこにいる人たちの動きが止まる。静かに身体を海に向ける人、涙を流す人、手を繋ぐ人。一年のうち一分間だけ、ぼくも海に向かって目を瞑る。毎年思うことは違うが、あの日のことを考えるということは変わらない。
 東を見れば海、西を見れば山。そのあいだにある小さな町で生まれ育ったぼくにとって、海は友人たちとの遊び場でもあったし、学生時代の甘酸っぱい思い出の場でもある。疲れたときの逃げ場所にもなっているし、気持ちを高めるために気分転換で行くこともある。生きるため海を生業にしている人もたくさん知っている。水平線を眺め、ただただ海の広さを感じることもある。そんな様々な想いと、亡くなった方への言葉にできない感情が入り乱れる。
 一分間の黙祷の後、そこにいる人たちは日常へと戻っていき、烏崎海浜公園はいつもの静かな海岸に戻る。ぼくはいつものようにカメラを構える。