岩手・宮城・福島MIRAI文学賞・映像賞

岩手・宮城・福島MIRAI文学賞・映像賞2022
3県のミライを綴る「文学賞」
受賞ノミネート作品

東の果てで
相原響一

 耳の奥がキンと鳴る。時速200Kmで、北へとぐんぐん運ばれていく。暗雲立ち込める窓の外の、だだっぴろい雪景色を見てうんざりした。時折見える住宅は、どうやって生活を営んでいるのか知る由もない。私は福岡県博多区天神のような商業ビルで溢れた都会が好きだった。そこから電車で数駅離れている私の地元は、どこにでもありふれた田舎町だ。誰がどうした、誰がどんなだと噂ばかりしている。ときめくようなお店もない。それが嫌で地元を離れ、どうせならばと一念発起の末上京し、就職した。そこまではよかった。何かを企んだ上司に転勤可能かと聞かれ、食い扶持を失うまいと必死で「はい」と返事をしたのが運の尽きだ。九州出身の私が、よもや雪国に送り込まれることになるなんて、思いもよらないことだった。研修が終わって正式に任命された土地は、岩手県は盛岡市だったというわけだ。あの時断っていればという後悔の念に溢れ、気が重かった。

 東京駅からたった4駅で到着するというのは意外だった。日本列島の中心から北までいくのに、3時間もかからない。地元に新幹線で帰るよりもよほど金額と時間が抑えられる。新幹線・はやぶさから降り立つ瞬間、これまでに体験したことのない芯から冷えるような空気の冷たさに圧倒される。寒い、寒い!と心の中で叫びながら、ちゃっかり盛岡駅の看板を背景に、左手をチョキの形にして記念撮影する。耳が痛くなるのを我慢しながら荷物を持って階段を駆け下り、屋内へと逃げ込む。駅舎の中には見たことのない暖房器具が天井から吊り下げられ、なんとお手洗いにもヨーロッパで見たオイル式のヒーターが備えてあった。こんなに寒いところで生きていけるのだろうかと不安が大きくなる。その一方で、盛岡駅に初めて降り立った感想は思っていたよりも都会であるということだった。地元よりも最低賃金が低い、という情報やイメージだけで東北の田舎街だと思っていたが、決してそうではなかった。むしろ、駅のレストランや土産物屋を見るからに、地元よりも活気があり、デザインも洗練されている。

東北に来て最期、孤独死の危険性を考えたが、不幸中の幸いにして、ここ盛岡は大学のサークルで懇意にしていた同級生の故郷でもあった。見知らぬ土地で、知る人が一切いないのと一人でもいるのとでは、雲泥の差があるように思えた。救いの一矢の名は小笠原茉優といい、学部は違ったが時々飲みに行く間柄だった。彼女は卒業後、地元での就職を決めたので、それ以来疎遠にはなっていた。だが、この転勤を機に久しぶりに連絡を取ってみたところ、彼女の文面には笑顔が咲いて見えた。『転勤なんだ!会えるのうれしい!』『有給取るよ!迎えに行くね!』というありがたい申し出もあり、今日、久しぶりに再会を果たすことになっていた。駅舎を出ると、正面には大きな看板が掲げられたビルや飲食店が立ち並んでいるのが見えた。
『駅に着いたよ』
かじかむ指先で連絡を送った。すぐに彼女から返信が来た。
『駅前のロータリーにいるよ』
右手に進み、茉優の車が停めてあるのを見つけ、間違いじゃないよなと一抹の不安を抱えながら近付く。白い息を吐き出しながら、浅く積もった雪を踏み、窓の中を恐る恐る覗く。綺麗に伸ばしている茶色のロングヘアから、茉優で間違いないと確信する。茉優もこちらに気づき、スマートフォンを仕舞って車外に出てきた。
「久しぶり。元気だった?」
息を切らすように茉優が声を発した。
「久しぶりだね。今日はありがとう。有給まで取って休んでもらっちゃって。」
久しぶりの再会に、思わず目を細めた。
「休みたかったから丁度良かったよ。荷物、後ろに載せて。」
茉優はすかさず車の後ろのドアを開けてくれた。盛岡の寒さを想定した装備が詰め込まれて膨れ上がったカバンを載せて、トランクを閉める。想定したところで、この調子だと太刀打ちできるかはわからない。其々運転席と助手席に乗り込む。座席のドアを閉めるとき、白い雪の粒がちらついて、いくつか膝の上に落ちたが、すぐに溶けて消えた。
「寒いねえ。一番分厚いコート着てきたんだけど。」
わたしはシートベルトを装着し、両手をこすり合わせた。茉優はさっそくシフトレバーを動かし、車を出発させた。
「そりゃあ、雪国仕様の装備揃えないとね。でもそのうち慣れるよ。新幹線、人多かった?」
「まばらだったよ。こんな時期に盛岡転勤になるとは思わなかったよ。」
「逆に、先に冬の厳しさを知っておいたら後が楽になるんじゃない?」
「そういうものかな。」
少し時間が経つと、助手席のシートが温かくなっていることに気づいて驚いた。
「これ、高級車なの?背中があったかい・・・。」
「こっちでは珍しくないよ。」
茉優が笑った。何もかもが新鮮に感じるわたしが可笑しいようだった。笑顔が懐かしいようで、どこか大人びて別人のようにも見えた。遠くには富士山のように立派な山の影が聳え立ち、駅前に架かる橋の下に流れる川はこの辺りの水源の豊かさを示すように広大だった。
「お昼、じゃじゃ麺でいい?」
「もちろん。お任せします。」
多少は予めガイドブックで下調べしていたので、三大麺のうちのひとつであることと、ジャージャー麺とは違う、ということは知っていた。だが、ジャージャー麺を食べたことがないので比較のしようはない。移動中はお互いに卒業後どのような生活を送っていたのかを報告し合った。茉優は畜産関係の仕事をしているということだった。大学時代から理系ではあったが、公務員か銀行員になっているのかと思っていたので何だか意外だった。話をしているうちに、目的地に到着した。雪がまた一段と深く見えた。下車するとき、恐る恐る足を雪に付けると茉優がまた笑った。じゃじゃ麺屋の暖簾をくぐってカウンターに並んで座る。
「運転、上手だね。」
「慣れる慣れる。じゃなきゃ生活できないよ。」
学生時代に免許を取って以来、片手で数えるほど運転経験をしたかも定かではないドライバーの私にとっては、こんな雪道を平然と運転できるようになるまでには、何年という歳月を必要とする予感がした。よくよく外を眺めていると、時折自転車で雪の上を平然と滑走している市民が散見されるので驚いた。すべては慣れ、という一言に集約されてしまうのだろうか。
「盛岡は雪少ないからね。北側の、八幡平っていうところにある高速道路は車道の両面が2メートルくらいの雪の壁になるからもっとすごいよ。」
これで雪が少ないとは!そして、2メートルもの高さに積まれた雪なんて絵本の中の世界の話のようだった。同じ国に住んでいるというのに、全くの別世界のように感じた。
「中2つお願いします。」
水が出てくると同時に茉優が注文をした。じゃじゃ麺は大きさの指定ができるようだった。目線の先に『茹で上がりまでに12分かかります』と張り紙に書いてあった。どんな極太麺が待ち受けているのだろうか。
「仕事、いつからなの?」
「さすがに引っ越しのために休暇取ってるから、週明けからだね。」
「そうなんだ。大変だけど、少しはゆっくりできるかな。」
「どうだろう。今日鍵と荷物を受け取って、急いでどうにかすれば日曜日は遊びにいけるかも。」
「本当?じゃあ、さっそく出かけようよ。気になってるところ、何処かある?」
「うん。本州最東端って岩手県にあるらしくってさ。」
「えっ、岩手なの。千葉かと思った。」
「地元なのに知らないの。」
「知らないっ。考えたこともなかった。」
茉優はすぐにスマートフォンで調べ始めた。本当だ、とつぶやいて画面をじっと見つめ、こちらを見た。
「東側に行くなら、ついでに牡蠣小屋、どう?」
「すぐ行けるの?」
「いや、どっちも宮古の方だから、車で2時間ぐらいかかるかな。」
茉優は何気なく2時間、と言ったが、東京から盛岡までの新幹線の乗車時間と変わらないことを思い起こした。ここでは何事もスケールが違うのだろう。しかし、最東端なる場所も、牡蠣小屋も、両方行けるのならばおいしい話ではある。
「最東端のついでに行けるのかな。」
「行ける距離だね。」
「それなら、日曜日に行きたいです。」
「よし。じゃあ、予約しておくね。今日の荷物はいつ来るの?」
「18時頃って言ってたかな。先に鍵を受け取りに行かないと。」
「食べ終わったらすぐ行こう。」
「何から何までありがとう・・・。」
孤独死を免れるどころか、片道2時間の運転さえ気軽に引き受けてくれる友人が傍にいてくれるということの心強さを思い知った。
「気にしないで。運転好きだから。」
「せめてじゃじゃ麺奢らせてください。」
ふふ、と茉優が笑う。おまちどうさま、という声と共にじゃじゃ麺が現れた。浅い皿に白くつややかな麺が盛られ、独特の肉みそが鎮座している。刻まれたきゅうりとネギが盛りつけられ、器の端には紅ショウガの塊が添えられている。汁のないうどんのような食べ物の、なんとも言えない見た目にたじろぐ。茉優は迷いなく割り箸を割って麺をかき混ぜ始めた。
「最初はそのまま混ぜて食べてみて。それからラー油とにんにくで味を変えるともっと美味しいよ。」
たしかに、このうどんと見紛う太い麺を茹で上げるには時間がかかるのだろう。見よう見まねで味噌を伸ばすように混ぜて、一口食べてみる。
「おいしい!」
でしょう、と茉優もご満悦だ。絶妙にうどんとも違うこのもちもち感はどこからくるのだろう。胡麻の利いた肉みそがたまらない。もちもちして甘味さえ感じる太い麺に絡め合わせた肉みその風味とさっぱりとしたきゅうりの歯触りを堪能したところで、ラー油を垂らして更に混ぜてみる。
「おいしい!」
茉優は良かったと言って笑った。じゃじゃ麺屋においてあるラー油は、家庭用のそれとは異なり、胡麻の風味が感じられていくらかマイルドな辛みに調節されているような気がする。そして、ニンニク好きの私は遠慮なくニンニクを乗せてみた。茉優はお酢をたっぷりかけていた。じゃじゃ麺の特色として、各々の食べ方、味の変化も一興なのだ。
「お店によって味噌の味もだし、卓上に置いてある薬味も違うし、自分好みの味にできるのがいいよね。」
茉優の説明があったおかげでひとしきり堪能できている。一人で来てはすぐにその本質には気づくことができなかったであろうと悦に入っていると、茉優がいきなり食べ残した麺に卓上に置いてあった生卵を割り入れ、店員さんを呼び出した。
「お願いします。」
目を丸くして何事かと見守っていると、店員さんがハーイ、と返事をするなり、茉優のどんぶりは店の奥に消えていった。戻ってきた頃には、素晴らしき黄金色の卵スープに生まれ変わっている。
「ちーたんだよ。」
茉優は得意気にその卵スープを紹介したが、困惑の余りその名前すら一度では聞き取れない。最後の1口2口分の麺を余して、卵の汁を加えるならば、初めから汁入りのうどんとして食せばよさそうだなどと思いながらも真似をしてちーたんをお願いした。口に入れて理解したが、初めから卵スープの入ったうどんではじゃじゃ麺を楽しむことはできない。愚問であったと直ぐに理解した。
「ああ、お腹いっぱい。」
「じゃじゃ麺って、すごいね・・・。」
「そうでしょ。これ、花巻とかほかのところにはなくって、盛岡だけなんだよね。何でかは知らないけど。」
へええ、と感心するばかりだ。今度、じゃじゃ麺の歴史でも調べてみようかと考えた。会計を済ませてわたしの家の鍵を受け取りに不動産屋へ向かった。鍵の受け取りは書類にサインをするだけですぐに終わった。荷物が来るまでにはまだ少し時間がある。
「一回、うちにこない?」
意外な提案だったので驚いたが、暖房器具のない部屋でじっと待つよりは気が紛れるうえに、東北の家がどんな風なのか興味があったのでありがたく誘いを受けた。茉優の実家は2階建てで駐車場が広く、垣根がなかった。駐車場の端にはちょっとした雪山が出来上がっていた。雪掻きの痕跡なのだろう。
「ただいま。」
大きい声で茉優がドアを開ける。その後ろを静かについて入った。
「お邪魔します・・・。」
どやどやと茉優のご家族が出迎えてくれた。
「同級生の星野春さん。」
茉優が紹介してくれた。
「こんにちは。東京から来たんだって?」
茉優と同じ鼻を持つ闊達な茉優のお母さん。
「はい。よろしくお願いします。」
思わずはにかんでいると、茉優と同じ目を持つ茉優のお父さんがすかさず声をかけてくれた。
「寒い?ビール飲む?」
「あ、ありがとうございます。」
「ちょっと。まだ手も洗ってないんだから待ってよ。」
茉優がむくれながらコートを脱ぐ。わたしにもハンガーを手渡してくれた。リビングに入ると茉優のお母さんが郷土料理であるひっつみを作っていて、すぐに手渡してくれた。
「寒かったでしょ。」
ひっつみは、小麦粉を練って作ったすいとんのようなものが入った汁物だ。具沢山で、鶏肉が入っている。じゃじゃ麺の後なので、あまりお腹は空いていなかったがせっかくなので頂いた。根菜が身に染みる温かさだ。
「そうですね・・・向こうはまだ20度ある日もあるので、1桁だと驚きます。」
家に到着する頃には、茉優の車が外気温9度と教えてくれていた。
「20度は暑いね。」
茉優のお父さんは目を見張った。屋内に入って気付いたが、地元の家より余程温かい。二重窓と気密性のおかげだろうか。見た目は地元の家と大差ないように見えるが、断熱性が全く違うようだった。盛岡や小笠原家、大学時代の話をしているうちに、荷物を受け取りに帰る時間になってしまった。
「そろそろ行こうか。」
茉優が腰を上げる。
「もう行っちゃうの?」
「またいつでも来てね。」
「ありがとうございます。また来ます。」
「そうそう、もう盛岡市民になるんだから、いつでも来なよ。ね。」茉優が念を押しながら私の肩を叩いた。絵に描いたようにアットホームな家庭で、なんだか泣きそうになってしまう。
「日曜日は宮古に行くしね。」
「何しに行くの?」
茉優のお母さんが尋ねた。
「牡蠣小屋行くんだ。」
敢えて最東端の話をしなかったのか、茉優の関心事は牡蠣に集中しているのか測りかねた。
「二人で?」
「んや、羽紀もいる。」
靴を履く手が一瞬止まった。それは初耳だった。思わず茉優の顔をじっと見つめた。誰のことだろうか?
「牡蠣小屋の牡蠣って食べ放題だし、いっぺんに山盛り出てくるんだから、胃袋用意しとかないと食べきれないよ。」
母親の忠告に対し、茉優は「はあい」と生返事をして玄関を出て行った。
お邪魔しました、と茉優の両親に挨拶をして茉優の後を追った。
「ウキって、誰?」
驚きを隠せないまま茉優に茉優に問いかける。
「言い出すの遅くなってごめん。同い年で幼馴染の森川羽紀っていうやつなんだけど、一緒でもいいかな。」
この状況で良いも悪いもないというか、断る権利がないように思えた。ただ自分の人見知り具合が心配だったが、茉優の友人なら大丈夫だろうか。
「うん。大丈夫だよ。」
「現地集合って言っておいたから、その時だけよろしくね。」
最東端の地には一緒に行かないのだろうかという疑問が半分と、わたしがいてもいいものなのかという不安が半分だった。
家に送ってもらって、茉優と別れた。比較的新しいアパートの一室で一人きりになった瞬間の、しんとした空気に東北の冷気を感じた。やはり二重窓のおかげか、思ったよりは寒くない。日常の喧騒から離れ、遠くへ来たことを改めて実感する。今日あったことを思い返しているうちに、荷物が届いた。みるみるうちに家の中は段ボールで溢れかえった。ガス屋が開栓に来たりして、寂しさを感じる間はなかった。荷解きに着手する前に、水が出ないことに気づく。水道の契約は今日から使えるようにしていたはずなのに。血の気が引いたが、先ほど茉優のお母さんから水道管が凍るので水抜きしているという話をされたことを思い出した。元栓なるものを探し回り、トイレにスイッチがあることに気づいた。北国では、いろいろな生きる知恵が必要なのだ。改めて小笠原一家に感謝しながら湯船に浸かって眠った。

待ちに待った日曜日。引っ越しの片づけに追われて疲れていたが、寝ぼけ眼のまま化粧をした。茉優は8時に迎えに来ると言っていた。身支度を済ませ、インターホンが鳴るのを待った。茉優は時間通りに来た。
「おはよう。」
「おはよう。もう片付いた?」
「ちょっとだけね・・・。」
本当に、片付いたのは少しだけだった。明日からの出勤に支障がない程度には綺麗にしたつもりではある。茉優の車に乗り込み、盛岡から一直線に東の海岸沿いである、宮古へと向かう。この道はかつて山で塞がれていたので、迂回する必要があったところを開いて、新しく道を作ったそうだ。てっきり震災復興のためだとばかり思い込んでいたが、それとは関係なしに物流や人通りのために新設されたのだという。素人目に見ても真新しい道路を、茉優は黙々と運転する。辺りはまだ暗かったが、徐々に朝焼けの美しさが空を覆った。カーステレオから流れる、ラジオのローカル番組を聴くともなく聴いていた。
「寝てていいよ。」
茉優は唐突に、窓の向こうを見つめるわたしに声をかけた。
「そういうわけにはいかないよ。」
「着いたら起こすから、寝てな。」
「茉優、疲れるでしょ。代わるよ。」
「冗談でしょ。おかげで目が覚めたよ。」
ふん、と鼻を鳴らせた。山の景色を抜けて、海岸が見えてくると気分が高揚した。地元とは違う海。でも、繋がっている。牡蠣小屋は本当にコンテナのような小ぢんまりとした家屋がぽつんと建っていた。既にお客が沢山入っているのか、建物の周囲には車が沢山停めてあった。黒いスポーツカーの前に、この極寒の最中、ミニスカートを履いた女性が立っていた。
「寒そう・・・」と声を漏らすと、茉優があ、と声を上げた。
「あれが羽紀だよ。」
エッ!と思わずにはいられなかった。車を降りると、森川さんはこちら側に来てくれた。
「こんにちは。初めまして。森川です。」
「こんにちは。星野です。」
茉優はやあやあと親し気に声を掛けた。森川さんは寒くないのだろうか、平然と喋った。
「東京からだと、寒いでしょ。」
昨晩の不安はどこへやら、どこか旧知の仲かのような安心感があった。
「はい。でも、室内はあったかいので。」
「まだ来たばかりでしょ。花巻とか行かないの?」
ご尤もな疑問だ。茉優が口を挟んだ。
「今日は、本州最東端に行きたくて宮古に来たんだ。」
「ええっ。岩手なの?」
森川さんも茉優と似たような反応をして、茉優と揃って笑ってしまった。
「言われるまで気づかなかったよねえ。」
茉優は森川さんの肩を持った。かく言うわたしも、予てより知っていたわけではない。これからの休日を想定して、旅先を考えるために漠然と地図を広げていた時に、偶然目に留まったのだと説明した。それは魹ヶ崎と言って、名前もまた珍しかった。
「日本最東端じゃなくて本州最東端だから、ちょっと控えめなのかも。」
たしかに、と茉優と森川さんは納得した。暖簾をくぐってお店の人に名前を告げ、席に通してもらった。ガラスのショーケースの中にビールを並べて冷やしてあるのが見え、いつもより格別うまそうに見えた。図画工作の現場のような四角いテーブルの真ん中に黒いプレートがあり、その上に四角い大きな覆いが鎮座していた。湯気があふれ出ており、既に牡蠣を蒸し始めているようだった。また、隣のテーブルには団体客が先におり、まだ朝だというのに酒を飲んではしゃいでいた。我々はカップル1組と相席になった。我々の接客担当と思しきおばさまが、説明に入った。牡蠣はわたしが剥いて皿の上に置いていく。腹具合はどうか、と尋ねてきた。その場に居合わせた全員が目を輝かせて「たくさん食べます」と表明し、牡蠣の登場を待った。
「魹ヶ崎って、何があるんだろう。」
茉優が先の話の続きを始めた。
「石碑と灯台だけみたい。」
わたしは持ち得る情報を開示した。
「でも、行くんだね。」
森川さんは訝しがった。
目の前の大きな覆いが外されると、牡蠣の山が現れた。こんなに大きな貝殻に包まれているのかと感心する。蒸しあげられて濛々と湯気を纏った牡蠣が目の前に積まれている。店員さんがひとつひとつ殻を外して身を剥き、皿の上に乗せてくれる。わたしたちは「大きい」と「うまい」を連呼し、ひたすら口にほおばり、贅を尽くした。醤油、一味唐辛子、タバスコ、ポン酢。ありとあらゆる手を尽くして、工夫を凝らした。それでも腹が苦しくなってきた頃、森川さんが唐突に言った。
「私も、食後の運動に最東端行っていい?」
「もちろん。」
食後の運動になるかはわからないけれど、賑やかになるのは良い。もう夢に出てきそうなほど牡蠣を食べ終えた後、我々は愈々本州最東端に向かうことにした。またも、車で4,50分移動する。車がないと生活が難しいように思えるが、車があればどこにでも行けそうだった。最東端の地はこのあたりだろうかという所には釣り客がまばらに見え、キャンプもできそうな緑が生い茂っていた。遠くから熊よけの鈴の音が聴こえる。
「熊いるの?」
思わず音を上げた。
「立札はどこにでもあるけど、見たことはないね。」
茉優と森川さんは目を見合わせた。最東端の石碑を見るには、この森の奥へ抜けていかなければならないのかと不安になっていると、森川さんがこちらを見てあっと声を上げた。
「鼻血出てる!」
乾燥のせいだろうか、興奮のせいだろうか。茉優が慌ててティッシュを出してくれた。恥ずかしさと申し訳なさでいっぱいになっていると、森川さんが「また来る理由にすればいい。」と、言った。そうだ、また来ればいい。これからお給料を貯めたら車を買おう。海も、山も、滝も、酒も、旨いものも沢山あるこの土地で、少しずつ寒さに慣れていこうと思いながら、鼻に栓をした。