岩手・宮城・福島MIRAI文学賞・映像賞

岩手・宮城・福島MIRAI文学賞・映像賞2023
3県のミライを綴る「文学賞」
受賞ノミネート作品

神楽囃子の鳴る方へ
白咲 芙蓉

 神楽の囃⼦が鳴っていた。太⿎の響きは⿊い杉林を震わせた。
⼿平鉦の⾳像はカチカチと⽕花を打って、笛の⾳は⾼く澄んだ声となって空へ昇った。

ダダスコダダスコ ダンダンダン ダダスコダダスコ ダンダンダン ダンダンダンダンダンダン

ダダスコダダスコ ダンダンダン ダダスコダダスコ ダンダンダン ダンダンダンダンダンダン

舞の⼒強い⾜の踏み、しなやかに翻る⽻のような扇の軌跡、⾵を切る太⼑の軋り。

 蓉⼦が初めて岩⼿県遠野市を訪れ、神楽という芸能を知ったのは昨年の秋のことだった。都内の⼤学に通う蓉⼦は、ゼミで柳⽥國男の『遠野物語』を読んでからというもの、不思議な伝承を持つ遠野のことが頭から離れず、居ても⽴ってもいられなくて思い切ってこの⼟地に⾜を運んだのだった。
 それはちょうど九⽉の⽇曜⽇の秋晴れの美しい⽇で、町はずれの神社では祭が⾏われていた。鮮やかな朱塗りの⿃居をくぐり、古びた⽯段を上がって本殿へ向かうと、道の左⼿の⼩さな神楽殿で神楽が奉納されていた。
 円を描いて舞台を廻る鶏舞や⼸⽮をつがえて舞う⼋幡舞、⾚い⾯をつけた猿⽥彦の舞や美しい着物を纏った天⼥の舞、獅⼦頭を⽤いて祈祷を⾏う権現舞など、様々な舞が鮮やかに繰り広げられる光景に蓉⼦は⼼を奪われた。
 天⼥を舞っていたのは⼆⼗歳くらいの⻘年だった。彼は祭りのたびに遠野に戻っては地元の袖⼭集落に伝わる神楽を舞っていた。今回も 数⽇前に遠野へ帰り、稽古をつけて舞を披露したのだった。終演後、舞を終えて神楽殿の後ろから出てきた⻘年は桐の紋のついた着物を着て先ほどの天⼥の⾯を抱え、額には汗が光っていた。
 蓉⼦は勇気を出して話しかけた。
「先ほどの天⼥の舞、素晴らしかったです。今回初めて神楽を観たの ですが、こんなに素晴らしい舞を今まで観たことがありません。」
緊張のせいで少し声が裏返った。
  ⻘年は驚いた様⼦だったが、すぐさま向き直って礼を⾔った。
「ありがとうございます。⾃分はまだ天⼥をやって⼀年⽬で、まだまだです 」
 ⻘年の⿊い瞳は⾼原の空のように澄んだ光を湛えていた。
 それから⻘年は、彼が伝承している神楽は早池峰神楽の岳流という流派だということ、遠野市にはこのような神楽の保存会が町ごと村ごとにあって、祭りのたびに神楽を奉納すること、かつて神楽は⼥⼈禁制だったが⼥性も神楽を舞うようになってきたことなど、様々に話して聞かせてくれた。
 蓉⼦は固唾を飲んでそれらの話を聞いていた。⾃分が⽇々都市の喧騒に埋もれ、憂鬱な毎⽇を寝起きするのと同じひと時に、遠野では⼟地の⼈たちによって⼤切に守られて芸能が⽣きづいているということを⽬の当たりにして、胸が⾼鳴った。

「でも、最近はどこも過疎化がすすんで芸能の担い⼿が少なくなったんだ。」
  ⻘年は少し顔を曇らせて⾔った。
「もし神楽に興味があったら、来年の祭りの時は⾃分の保存会に遊びに来てけろ。」
 蓉⼦は、はっとした。地域の⼈たちが誇りを持って守ってきた⽂化に蓉⼦のようなよその⼟地から来た⼈間が関わることはそう簡単なことではないことは分かっていた。神楽の保存会を⾒学させてもらうなど夢にも思っていなかった。
 ⻘年は名前を拓⼈といった。
 こうして話をしているうちに、蓉⼦は来年の九⽉もまた祭りの前に遠野を訪れ、拓⼈が所属する神楽保存会の練習を⾒学させてもらうことになった。

 それからあっという間に⼀年が過ぎ、次の年の九⽉になると、蓉⼦は約束の通り新幹線と釜⽯線を乗り継いで遠野へと向かった。
 遠野駅に着くと、拓⼈は軽トラックで迎えにきていた。
「蓉⼦さん、久しぶりですね!」
 拓⼈は⼤きく⼿を振った。蓉⼦も思わず笑顔になって⼿を振りかえした。
 蓉⼦は拓⼈のトラックの助⼿席に座った。トラックの椅⼦は背もたれが垂直で座り⼼地が悪かったけれど、久しぶりに遠野に来られたこと、拓⼈に会えたことが嬉しくて⼼がはずんだ。
 トラックは曲がりくねった⼭道をびゅんびゅんとばした。昼間の⽇差しは⼭の斜⾯をななめに降りて、果樹園の林檎はうっとりと⽇を浴びて艶やかに熟れていた。窓を開け放つと森の⾹りが舞い込んで、思わず外へ顔を出したくなった。空へせりあがるような坂を登ると、⻘く鏡のようになって流れる川の脇の道を下って⼩さな⺠宿に着いた。
 拓⼈は、駐⾞場に⾞をとめると、蓉⼦のスーツケースを荷台から降ろしてくれた。そして、神楽の練習の前にまた迎えに来るからと⾔って運転席に乗り込むと、ハンドルを勢いよく回し、軽く⼿を振って来 た道を戻って⾏ってしまった。

 蓉⼦はどきどきしながら⺠宿の⾨の前に⽴った。⾨には⽊製のプレートがかけられ、「⺠宿たかぎ」と⼿書きの⽂字で書かれていた。⼩さなしま模様の猫がミャオと鳴いて⾝体をくねらせながら蓉⼦のふくらはぎに戯れた。

「すみません、今⽇から宿泊の予約をしている須崎と申します。」
 扉の奥に向かって呼ぶと、家の奥から物⾳がして、優しそうな中年の⼥性がガラガラと引き⼾を開けて顔を出した。
「あら、いらっし‚い。お待ちしていましたよ。須崎さんですね。⾼本です。どうぞ、お⼊りください。」
 ⺠宿の⾼本さんは⽬を三⽇⽉のように細くしてにっこりと微笑んだ。
 家はかなり古いつくりのようで、廊下の梁は雪の重みでわずかにた ゆんでいた。奥の客室に通されスーツケースを置いて荷物を⽚付けて しまうと、蓉⼦は畳の真ん中に⼤の字に寝転んだ。
 畳に寝転ぶのはいつぶりだろう。
 イグサの良い⾹りがした。まぶたを閉じると、眼裏には先ほど宿まで送ってくれた拓⼈のすがすがしい笑顔が浮かんだ。あの素朴な感じのする⻘年がまるで本物の天⼥のように美しく巧みな舞を舞うのだということが何だか信じられなかった。
 蓉⼦は起き上がると、⺠宿の⾨から道に出た。道脇には⻘々と⼤⾖畑が広がり、連なった⼭の末に空がひらけている。刈られる前の⽥の上空には、アキアカネが⽻をキラキラさせながら渦を巻いて⾶んでいた。
 何だか、ひろびろと⼼をあけ渡したくなるような空だった。⾵は秋の⽇差しに暖められて柔らかく、⼼にぽかぽかと雪が溶けるような気がした。
 宿に戻ると、⾼本さんは縁側のテーブルに座って、蓉⼦のためにお茶を淹れてお菓⼦を出してくれた。「あけがらす」という菓⼦は胡桃と胡⿇の⾵味のほんのりとした⽢さが上品でとても美味しかった。聞けば、遠野の名産のお菓⼦なのだという。
 縁側から⼊ってくる光がカーテンを透かして⾼本さんの額に揺れていた。
「蓉⼦ちゃん、神楽をやるんでしょう。前に拓⼈さんが話してくれたわ。」
  ⾼本さんはふと、つぶやくように⾔った。
  蓉⼦は驚いた。⾃分が神楽をやるなどということは初⽿だった。
「いいえ、保存会を⾒学させて頂くだけです。昨年初めてお祭りに⾏って神楽を観て、本当に感動したんです。それで偶然拓⼈さんに話かけて 。」
 ⾼本さんは膝のうえに丸くなって寝ている猫の⽑並みをととのえながら⾔った。
「そうなのね、でもきっと、少しくらいはやってみたらいいわ。神楽はこの⼟地の⼈たちがずっと⼤切にしてきたものだから。そういえば、この⺠宿でも昔神楽が⾏われていたのよ。」
 ⾼本さんは漆塗りの古い物⼊れから巻物を出して⾒せてくれた。和紙に⾏書体で何やら⽂字が書かれている。
「享保元年 神楽上演記録…。」
 この地域では、各家が持ち回りで神楽宿として⺠家に注連縄を張り、神楽の上演を⾏っていたそうだ。蓉⼦がこうして⾼本さんと話しているうちに、あっという間に⽇が暮れて、神楽の練習が始まる時間になった。
 エンジン⾳が⺠家の前に⽌まった。蓉⼦は急いで荷物と⼿⼟産を持つと、拓⼈のトラックの助⼿席に⾶び乗った。
「蓉⼦ちゃん、頑張ってね。楽しんできてね!」
 ⾼本さんは⾨のところまで出て⼿を振って⾒送ってくれた。蓉⼦は ⼿を振りかえし、拓⼈は軽く会釈をした。
 夜の⽥舎道は⼀⼨先が⾒えないほど真っ暗で、遠く⼭の端に集落の明かりが点々と灯って、天球から⼩さな星が瞬いて無数に降りてきたようだった。

 公⺠館に到着すると、ちょうど保存会の⼈たちが⼀⼈、また⼀⼈と 集まって来ているところだった。みんなこの袖⼭の集落に⽣まれ育ち、遠野市内で仕事をしているのだという。保存会のメンバーは⼗⼈ほどで、中には⼩さな⼦供を連れて家族で練習に参加している⼈もいた。公⺠館には板敷の神楽舞台があって、奥には⼤きく袖⼭神楽保存会と書かれた幕が降ろされていた。

「これが神楽舞台なのね」

 蓉⼦は⾔った。

「そう、舞台の四⽅には注連縄をかけて、奥には神楽の幕を下ろすんだ。幕は神楽の種類や保存会によって⾊々な絵柄や紋が描かれている。あの幕の後ろに舞⼿が控えていて、太⿎の打ち鳴らしが始まったらこの幕をくぐって舞台にでてくるんだ。」
 拓⼈は答えた。
 保存会の⼈たちは机を囲んで何やら話し込んでいたが、蓉⼦が声をかけると皆振り返って挨拶した。

「前に拓⼈が話していた蓉⼦さんね。東京からはるばる、遠野へようこそ。」
 ⿊ぶちの眼鏡をかけた髪の短い⼥の⼈が蓉⼦の⽅を向いて⾔った。
「ありがとうございます。蓉⼦と申します。よろしくお願いします。」
 蓉⼦は姿勢を正して⼿を⾝体の前で丁寧に重ねるとお辞儀をした。
「そんなにかしこまらなくていいのよ。さあさあ、座って。」
 その⼥の⼈は蓉⼦の分の椅⼦をすっと⽤意してくれた。拓⼈が事前に保存会の⼈たちに蓉⼦のことを紹介してくれていたらしい。
「蓉⼦さんは神楽に興味があるんでしょう。私たちにとったら⼦供の頃からずっと当たり前にあるものだけど、外から来た⼈にとったらかなり珍しいものみたいね。来てくれて嬉しいわ。」
 保存会の⼈たちは蓉⼦に気さくに話かけ、輪の中に⼊れてくれた。

 やがて、会⻑さんが到着するといよいよ練習が始まった。会⻑さん は七⼗代の⼩柄な男性で、若い頃は舞の名⼿だったという。皆に明るく挨拶をすると、神楽舞台の真正⾯に座布団を敷いて座った。
 太⿎が打ち鳴らされると、「⾨打ち」の舞の練習が始まった。「⾨打ち」とは、商店や⺠家の⾨の前で獅⼦舞や神楽が祈祷をしてまわることを⾔う。袖⼭神楽保存会の「⾨打ち」の踊りは太⼑を⽤いて宙を切るように踊られる。練習では、神楽舞台に三⼈ほどが上がり、⼦供もそこに混ざって踊っていた。
 保存会の⼈たちは各々⼑のさばき⽅に個性があり、蓉⼦はそれが素敵だと思った。そんな⾵に感⼼して⾒とれていると、拓⼈が来て蓉⼦の⽅へ太⼑の柄を差し出して渡した。
「蓉⼦さんもやってみてけろ。」
 拓⼈は⾔った。
 蓉⼦が⼾惑っていると、⾒かねた会⻑さんが蓉⼦に向かって微笑んで⾔った。
「せっかく遠野まで来たんだもの。少しぐらいやってみてもいいんでねえか。」
 蓉⼦は、覚悟を決めて太⼑の柄を受け取った。拓⼈は⾃分も⼑を持つと、神楽舞台に上がり、蓉⼦の前に⽴って丁寧に動きを教えてくれた。

 後ろに⾝を翻して下から上へ⼑を突き上げて宙を斬る、次に、前に⾝を翻して⼑を肩にかつぐ。
 この動きを少し変えながら繰り返す。

 動きが難しいだけでなく、腰を落として踊る神楽の舞は体⼒的にもかなりきつい。蓉⼦ははあはあと息を切らしながら必死に拓⼈の動きのあとに続いた。拓⼈は蓉⼦ができるようになるまで何度でも練習に付き合ってくれた。
「なかなかすじが良いなあ… 。」
 会⻑さんは蓉⼦の踊る姿を⾒て感⼼したように呟いた。
 「⾨打ち」の練習が終わると、保存会の⼈たちが披露する演⽬の練習が始まった。先ほど蓉⼦に話しかけてくれた⿊ぶち眼鏡の⼥の⼈は ⼸⽮をつがえて舞う「⼋幡舞」を踊った。⼤地を⼒強く踏んで舞うこの舞は迫⼒があってとても格好良かった。
 拓⼈は、彼の兄と鶏舞を舞った。鶏舞は「⼋幡舞」とは異なり派⼿な所作はないものの、⾜を少し後ろへおくる動きや扇をかざす動きが印象的で美しかった。
 次の⽇も、また次の⽇も蓉⼦は休まず練習に参加した。そして、「⾨打ち」の舞をなんとか踊れるようになった。⼀度踊りを習得すると動きの軌道が⾝体に馴染むように感じられ、太⼑の重さもそれほど気にならなくなった。
 三⽇⽬の練習の最後に、会⻑さんが蓉⼦の⽅へきて声をかけた。
「蓉⼦さん、初めてで⼤変だろうけど鶏舞をやってみねえか?」
 蓉⼦は驚いた。実は昨⽇、今度の祭りで鶏舞を踊る筈だった拓⼈の兄が怪我をして舞台に出ることが難しくなったのだった。
「鶏舞」は、神楽殿や神楽舞台で上演が⾏われる際に、はじめに場を清める重要な舞だ。そのような舞が⾃分に務まるだろうか。蓉⼦は不安だった。しかし、そんな思いとは裏腹に元気よく答えていた。
「はい、やってみたいです!」
 会⻑さんは頷いた。
「よし、そうしたら練習を始めよう。」
 鶏舞は、古事記に登場するイザナミとイザナギを象徴した⼆⼈の舞⼿が円を描いて舞台上をめぐる舞だ。
 ⽇本では、鶏は明け⽅に鳴くことから、闇を払う神聖な⿃として信仰されてきた。
 神楽の演⽬の中では派⼿なものではないけれども、両脚の膝をきっちりつけて踊ることや、腕を⽬線の⾼さより⾼く挙げてはいけないことなど様々な決まりがあり、品よく美しく踊るには訓練が必要な難しい舞だ。
 蓉⼦は必死になって練習した。舞の中で、ゆっくりとしゃがんでは起き上がる動きが何度も繰り返され、前腿の筋⾁をひどく疲労させた。⼗分ほどもある演⽬のあいだ中、ずっと腰を落として屈んだ姿勢を保つことは⾄難の業だった。脚の運びだけでなく、演⽬の後半の扇 の扱いもまた本当に難しかった。
 蓉⼦が苦戦していると、そんな時は決まって拓⼈や保存会の⼈たちが隣に来て、
「扇はもう少し⾝体の近くでまわすと良いよ。」
「扇を返すタイミングを早くするとやりやすくなる。そう、良くなった。」
 などと声をかけながら教えてくれた。
 練習が終わって宿に帰る頃には、蓉⼦の⾝体はくたくたになっていた。宿に帰って熱い湯船にさっと浸かると、布団に⼊って気を失ったように眠った。

 そうしているうちに、とうとう祭りの当⽇になった。
 今回蓉⼦が出るのは、遠野市内の郷⼟芸能団体が⼀同に会する「ふるさと遠野まつり」という祭りだ。この祭りは遠野市で⾏われる数々の祭りのうちで最も規模が⼤きいものだ。
 蓉⼦は前⽇の晩になんとか鶏舞を習得したのだった。振りを覚えなければならない重圧から解放されたせいか、⽬が覚めると蓉⼦の⾝体はすっきりとしていた。
 窓から外を眺めると、宿の裏の栗林にはうっすらと⼩⾬が降り、灰⾊の霧が⼭のおもてを這うようにかかっていた。昨晩はかなり⾬が降ったようだ。⾵景は透きとおった陰影を湛え、⿊い⼤地は冷たい⾬に清められたようだった。
 蓉⼦が宿の⾷堂へ向かうと、⾼本さんは暖かいご飯と具の多い豚汁を⽤意してくれていた。
「あいにくの⾬ね。でも⼤丈夫よ。予報ではお昼頃から晴れることになっているから。今⽇は蓉⼦ちゃんの舞を観に⾏くわ。」
 蓉⼦は⼿にぐっと⼩さく拳を握りしめた。
「ありがとうございます、頑張ります。」
 明るく⾔ってみたものの、緊張で少し表情がひきつっているのが⾃分でも分かった。
 ⾼本さんはそれを⾒てふっと笑って⾔った。
「あんまり気負わなくて⼤丈夫よ。楽しむことが⼀番。とにかく、楽しんでね!」
 蓉⼦は頷くと、豚汁をすすった。汁を啜ると、⾝体の内側から湯気が⽴ってほっと温かくなるような気がした。
 蓉⼦が朝⾷を終えて部屋に戻ると、⾨の外にトラックが⽌まる⾳がした。
「⾼本さん、おはようございます。いよいよ今⽇ですね。」
 拓⼈が声をはずませて挨拶をした。
「あら、拓⼈さん、おはよう。いつも蓉⼦ちゃんをありがとね。今⽇は私も久しぶりに祭りに⾏くわ。」
「⾼本さん、来てくださるのですね。嬉しいです、ありがとうございます。」
  拓⼈は軽くお辞儀をすると、⽞関でしばらく話をしていた。蓉⼦は 神楽に使う⾜袋や雪駄や扇の準備で忙しく、何を話しているのかよく 聞こえなかったけれど、今⽇の神楽の演⽬や蓉⼦の出番の時間などについて事細かに話しているようだった。
 ⽀度が整うと、蓉⼦は拓⼈のトラックに乗り、霧のかかったホップ畑を横切って遠野の中⼼部にある市役所へ向かった。拓⼈はトラックを運転しながら今日の流れについて⼝早に話し始めた。
「まず、市役所の控室で着物を着る。そして、午前中は町場をめぐって⾨打ちをするんだ。慣れない雪駄で⻑時間歩くのは疲れるから、休み休みいこう。」
拓⼈は⾔った。
「それから、お昼過ぎに市役所前の芸能パレードに参加して、ここでも⾨打ちの⼑の舞を披露する。毎年、観光に来た⼈たちですごい賑わ いなんだ。そして最後に、夜の神楽共演会が市役所前の神楽舞台で開催される。ここで蓉⼦さんは鶏舞を踊るんだ。」
 蓉⼦は頷いた。何だか、これから⾃分が思ってもみなかったようなことが起るようなきがして胸が⾼鳴った。
拓⼈は続けた。
「それにしても蓉⼦さんは努⼒家だなあ。保存会の⼈たちも感⼼していたよ。」
 蓉⼦は拓⼈の横顔を⾒つめた。拓⼈や保存会の⼈たちにほんの少しでも認めてもらえたような気がして嬉しかった。
 道の脇の川幅が徐々に広くなり、⾞が町場に⼊った。町場には屋台や神輿の準備が為され、沸騰する⼨前の湯⽔のような騒々しさがあった。
 祭り当⽇の朝、保存会の⼈たちは市役所の控室に集まって着物の着付けを⾏う。会⻑さんは蓉⼦に桃⾊の花模様の着物と綺麗なうぐいす⾊の袴を貸してくれた。
「今⽇は⼀⽇⻑くなる。頑張ろうな。」
 そう⾔って⽬の端にしわをつくってにかっと笑った。
「はい、頑張ります。よろしくお願いします。」
 蓉⼦も⼀緒になって笑った。
 保存会の⼈たちはみんな⼿慣れた⼿つきで⾃分の着付けを⾏なってゆく。
 蓉⼦は保存会の⼆⼈の⼥性に着替えを⼿伝ってもらった。神楽の着付けは、着物を⼆枚着重ねてその上から襷をかけ、おもて側の⼀枚を脱ぐ「脱ぎだれ」という特別なものだ。
「蓉⼦さん、なかなか似合ってら。」
 会⻑さんが⾔った。蓉⼦は少し顔を⾚らめた。着物を着るのは⾝体が締め付けられる感じがして苦⼿だった。
 拓⼈はきれいな⽩い着物を着て紺の袴を履いていた。
 全員の着付けが済むと「⾨打ち」を⾏うために町場へ出る。先頭を歩く⼈が保存会の名前を書いた旗を掲げ、⼑や太⿎を携えた⼈たちがその後に連なって歩く。
 そして、古い⺠家や商店の前まで来ると、⽴ち⽌まって太⿎を打ち鳴らし、権現さまと呼ばれる獅⼦頭を掲げて祈祷の舞を⾏う。蓉⼦たちも⼑を持って⼀緒になって舞を舞った。
「⾨打ち」が始まると商店の⼈たちは家から出てきて鑑賞し、祈祷のお礼に飲み物や飴をくれたり、御花と呼ばれる現⾦の⼊ったのし袋をわたしてくれたりした。
 かつては、⾥に住んで町場で買い物をする⼈々が祭りの際に神楽の祈祷を⾏って御花を貰い、経済をまわしていたのだという。
 蓉⼦はふと、遠い昔、まだ農業が機械化されていないような時代に袖⼭神楽保存会の旗を掲げて同じように「⾨打ち」にまわっていた⼈たちのことを想った。
 蓉⼦たちは午前中のうちに市の中⼼部の数軒の⺠家や商店で「⾨打 ち」を⾏い、昼⾷をとりに市役所へ戻った。
「拓⼈さん、お疲れさま。」
 蓉⼦は拓⼈に⾔った。拓⼈の⾔った通り、慣れない雪駄のせいで脚 はくたくたになっていた。
「お疲れさま、蓉⼦さん。やっと昼⾷だね。いっぱい⾷べて午後に向 けて⼒をつけてけろ。」
 拓⼈は蓉⼦に拳ほどの⼤きさもある握り飯を渡してくれた。町場を歩いて神楽を舞って疲れた⾝体に⼤きな握り飯はご馳⾛だった。⽶は⼀粒⼀粒がふっくらと炊けていて、真ん中には⽬が覚めるほど塩⾟い梅⼲しが⼊っていた。蓉⼦は夢中になって頬張った。
 昼⾷を終えると、蓉⼦たちは市役所の前の道を練り歩くパレードに参加した。パレードには遠野市内の様々な郷⼟芸能団体が参加していた。
 太⿎を打ち鳴らし、紺や⽩の幕を翻して踊るしし踊りや、鮮やかな⾚の着物を纏い⽇本髪を結った少⼥たちが踊る南部囃⼦など、町には⾊彩と⾳像が溢れ、何だか宝箱をひっくり返したような光景だった。
 蓉⼦はこれほど様々な郷⼟芸能がこの⼟地に伝承されていることに驚くと同時に、⽇本に住む⼈たちが⼼の奥底で遠い昔から⼤切にしてきた⼼象⾵景のようなものがここに在るような気がして、ただぼんやりと⾒惚れてしまった。
 真昼になると⽇はぎんぎん照りだして、⾵は灰⾊の雲をさっと払った。今朝降りやんだ⾬に濡れた⺠家の屋根は、陽射しを浴びてまばゆく輝きだした。
 パレードが始まると、蓉⼦たちは列になって「⾨打ち」の舞を舞い、拓⼈は列の後ろで笛を吹いた。⽵でできた笛の⾳⾊は、澄んだ⻘空に晴れやかに昇った。
 通りは⾊とりどりの造花や提灯で飾られ、観光客はみんな思い思いに写真を撮ったり、屋台の団⼦を⾷べながら神楽を鑑賞したりしている。
 パレードが終わると、夜の神楽共演会の準備に取りかかった。この舞台でいよいよ蓉⼦は鶏舞を披露するのだ。
 蓉⼦は、⾨打ちの⾐装を脱いで⿊い⼥物の着物を着付けてもらった。うしろみごろを合わせて襟をととのえ、腰紐をぎゅっと結ぶ。そして、着物の上から帯を巻く。帯を巻かれると、肺と肋⾻がひとまわり縮まるような気がして少し呼吸が苦しかった。帯には錦⽷で細かく萩の模様が織り込まれ、光にかざすときらきらと輝いて美しかった。
 頭には⼿拭いを巻き、その上から鶏の飾りのついた⿃兜をかぶって喉もとできつく紐を括って固定した。これできっと舞の途中に兜が脱げることは無いはずだ。
 装束を着けるのと着けないのとでは⾝体の感覚が⼤きく変わる。蓉⼦は着物と兜に縛られてガチガチになりながら舞台の⽅へ向かった。拓⼈も蓉⼦と同じ鶏舞の装束をつけて、もう舞台袖に待機していた。

 演⽬を紹介するアナウンスが始まると、蓉⼦たちは幕の後ろへ控えた。
 拓⼈は蓉⼦の肩をぽんと叩いた。
「⼤丈夫、これだけ練習をしてきた蓉⼦さんならきっと良い舞ができるはず。」
 拓⼈が蓉⼦を⾒つめる⽬には、蓉⼦へのまっすぐな信頼がこもっていた。蓉⼦は頷いて、胸の奥が熱くなるのを感じた。蓉⼦もまた彼を⾒返した。
「よし、⾏こう。」
 拓⼈が⾔うと、ちょうど太⿎の打ち鳴らしが始まった。
 拓⼈ははじめに神楽の幕をくぐって舞台に出た。
拓⼈が舞台をひと廻りするのを⾒届けると、次に蓉⼦も幕をくぐって舞台に出た。⼆⼈は円になって廻りながら息を合わせて舞の所作をくり返した。
 ⼀度舞台に出てしまうと装束に⾝体を縛られる息苦しさはもう気にならなくなっていた。蓉⼦は夢中になって踊った。
 ⾜を踏み、着物を上⼿くさばき、扇を翻して舞っているうちに蓉⼦は今までお世話になった⼈たちへの感謝の気持ちが溢れてきた。
 この舞を⾃分に教えてくれた会⻑さんや神楽保存会の⼈たちや、拓⼈さんや、⺠宿の⾼本さんや、神楽を昔から今まで伝えて守ってきくれた顔も名も知らない⼈たちや…

 会場からは声援が⾶んできた。それは、⼀⽣懸命に舞う蓉⼦たちを応援する声だった。

この⾝体に神楽というひとつの芸能を預からせてもらった。
 ⾃分は遠野の外から来た⼈間だけれども、芸能を預かる命の連なりのひと鎖としてこの舞を舞わせてもらっている。だから一生懸命に神楽を舞いたい。
 そして、これからもこの⼟地で芸能を預かり、守ってゆきたいと蓉⼦はこの時強く思ったのだった。

 本番の舞台が終わると、会⻑さんが迎えてくれた。保存会の⼈たちも宿の⾼本さんも後から来て蓉⼦を笑顔で迎えてくれた。無事に舞終わってほっとしたせいか一気に涙が溢れてきた。
 拓⼈は蓉⼦の⽅へ来ると、爽やかに笑って汗をぬぐいながら⾔た。
「さすが蓉⼦さんだね。でも何だか最初からこうなるような気がしていたんだ。」
 蓉⼦は彼との約束を果たせたような気がして嬉しかった。
皆が⾏ってしまうと、拓⼈は蓉⼦に⾔った。
「明⽇の朝、⾼清⽔⾼原に⾏こう。蓉⼦さんに渡したいものがあるんだ。」
蓉⼦は頷いた。

 次の⽇の早朝、拓⼈は蓉⼦を迎えに来た。蓉⼦は宿の部屋から出ると、彼の軽トラックの助⼿席に座った。窓から⾒える杉の林は⻘くしんと⽴って、かすかに霧のかかる草むらに⼩さな鈴をゆするような声で⾍が鳴いていた。トラックはくねくねと曲がる細い⼭道を登った。
 頂上まで来ると。その⽇は雲海が出ていた。雲海の上には、声を投げるとどこまでもまっすぐに響いてゆくような⻘い空が広がっていた。
 拓⼈と蓉⼦がトラックから降りると、道の向こうに⿊い⼤きな影がざわざわと⾳を⽴てて草むらにもぐった。
 蓉⼦は⼀瞬どきりとして、⾝を固くして拓⼈の⽅を⾒た。
 拓⼈は朗らかに笑って⾔った。
「あれはカモシカだよ。この場所は普段は野⽣の動物たちの場所なんだ。⼤丈夫、彼らは⼈を襲うことはないから。」
 緊張の⽷が解けて、蓉⼦はふうとため息をついた。
 ⽇が昇るとともに雲海がとぎれて、眼下に遠野盆地がひらけた。川が分かれて中央を横切り、⻩⾦⾊の⽔⽥がモザイク模様を散りばめたように広がっている。

「わあ、きれい。」

 蓉⼦は思わず声を上げた。それは、美しい⼭々に囲まれ、守られるように横たう盆地だった。拓⼈は側に⽴って黙ってその明けてゆく光景を眺めていた。⾵が吹くと草はさらさらと鳴り、⾼原のすすきは銀の流れのようになって波⽴っていた。
 拓⼈がふと⼝を開いた。

「昨⽇の神楽は本当に良かった。感動した。」
「蓉⼦さんの踊りが良かったから、あんなにも応援する声が客席から湧いたんだ。」
蓉⼦は⾔った。
「まさかこんなことになるなんて、⼀年前には全く想像していなかったわ。」
「でも、今こうして神楽を踊ることができてとても嬉しい。拓⼈さのおかげよ。本当にありがとう。」
拓⼈は、ふっと微笑んだ。
そして、⼿に持っていた紫の⾵呂敷を開くと、中から袖⼭神楽保存会の法被を出して蓉⼦に渡した。
「受け取ってけろ、蓉⼦さんはもう⽴派な袖⼭神楽保存会の⼀員だ。」
「これを⼤事に持って、またいつでも神楽の練習に来てけろ。また一緒に舞台に⽴とう。」
 蓉⼦はもう嬉しいのだかおそれ多いのだか、何だか様々な思いが込み上げて涙が出そうになった。
 蓉⼦が頷いてそれを受け取ると、拓⼈はまたにっこりと微笑んだ。
 笑った拓⼈の瞳は、朝の澄んだ美しい光を湛えていた。